無責的思考のすすめ

何らかのきっかけでフラストレーションがたまったときに、アグレッションをどこに向けるかという点で、人間の反応は3パターンに分けられる。
ひとつは「自責」、もうひとつは「他責」、最後は「無責」だ。

つまり、自分にとって嫌なことがあったとき、自分を責めるか、他人を責めるか、「仕方がない」と受け入れるか(無責)、どのパターンが多いかで、その人がストレスに対してどのように対処する傾向があるかがわかる。

(実際にはアグレッションの方向だけでなく、表現型も含めて分けるのだが、簡略化するためここでは割愛する)


言うまでもないが、当然、この反応は、フラストレーションの内容によっても異なる。

自分が前日に遅くまでゲームをして夜ふかししていて、次の日に寝坊して会社に遅刻して怒られた場合、ほとんどの人は自責的な反応をするだろう。
逆に、自分の方が青信号で横断歩道を渡っているのに、横から信号無視の車が来て引かれそうになったとしたら、腹を立てて相手を責める人がほとんどのはずだ。


しかし、生活の上で降り掛かってくるストレスの多くは、責任の所在がわかりにくく、どちらともとれるようなものだ。

例えば、さっきの話で、夜ふかしの原因がゲームではなく残業であった場合はどうだろうか。
寝坊したのは確かに自分のミスかも知れないが、前日に遅くまで残業させたのは会社だ。
この場合は、自責的になるより会社のせいにするほうが健全である気がする(少なくとも心のなかでは)。
しかし、自責傾向の強い人は、「残業になったのも自分が無能なせいだ」「さらに遅刻をして会社に迷惑をかけてしまうなんて、だめな人間だ」と、100%自分が悪いかのように捉えてしまうかもしれない。


大雑把に言うと、上の例のように、過度に自責的な人は、自己評価が低く、抑うつ的になりやすい傾向がある。

仕事が覚えられないのも、挨拶を返してくれないのも、彼女ができないのも、ぜんぶ自分のせい…というわけだ。

しかし、果たして本当にそうだろうか。

仕事が覚えられないのは教え方が悪いせいかもしれない。もしくは、誰でも最初は時間がかかる、と言うこともできる。
聞こえていないなら仕方がないが、挨拶されているのに返さないなんて人として終わっているから、これは相手が悪いはずだ。
彼女ができないのは、容姿の問題もあるかもしれないが、それ以上に運とタイミングの問題だ。どんなイケメンでも100%口説けるわけではない。

つまり、ストレスのほとんどは、自分のせいでもあり、他者のせいでもあり、仕方がないとも言えるものなのだ。

それなのに、すべて自分のせいのようにとらえて、自分を責めてしまい、さらに自己評価が下がり、対人関係に臆病になってしまってうまく関係を築けなくなる、という悪循環になる。


もちろん、自分に非がある場合、それを認めて反省する、ということは必要だ。
しかし、反省は改善につなげないと意味がない。
さっきの遅刻の例で言えば、ゲームだったら「夜ふかししない」が正解だが、残業の場合、何が正解だろうか。
「休日出勤で補う」とか「目覚ましを増やす」とかは、全く有効な改善策とは言えない。それは泥沼にハマる危険な道だ。
なかなか難しいだろうが、この場合は、会社と業務負担について話し合うのが正解だろう。
それが正しいPDCAサイクルだ。
自分に非がないことまで自分のせいにして、それをなんとかしようとするのは、Planがそもそも間違っているのでうまくいくわけがない。


これは考え方の癖のようなものなので、簡単に治すことはできないが、まずは自分がどのような反応のパターンが多いかを認識し、自責的な傾向が強い人は、まずその自分の傾向を認識することが必要になる。

そして、少しずつ、「今のは自分が100%悪いわけではないのかもしれない」とか、「相手も悪かったな」とか、「仕方なかったな」とか、そういう考え方ができるようになると、ちょっとずつでも悪循環を断ち切る方向に持っていけると思う。


では、「他責的思考」はどうだろうか。

他人のせいにするのは、ひたすらに自分を責めるよりはマシなパターンだ。
ただ、他人を責める感情というものは意外とやっかいで、長く続いてしまうことがある。


東日本大震災関連で、とても痛ましい報道がある。
津波の報を受けた保育所や幼稚園が、急いで園児たちを帰宅させてあげようとしたが、結果的に送迎バスが津波に飲まれ、亡くなってしまったというものだ。

そのこと自体もとても悲しい事故なのだが、非常にやりきれない思いにさせられたのは、園児の遺族が、保育所を提訴したという報道だ。

個々の事情は第三者にはわからないから、その是非は問わないし、そもそも是非の問題でもない。

ただ、明らかなことがあるとするなら、園児の命を奪ったのは、地震、そして津波という天災であるということ、
そして、保育所の職員たちは、同じように被災した人たちであり、園児を助けようと努力した人たちである、ということだ。

結果的に園に残っていたほうが命が助かったのかもしれない。もしくは、帰宅させないで集団で高台に避難したほうがよかったのかもしれない。
しかし、そんなことは結果論でしかない。津波が、どのくらいの規模で、どのくらいのスピードで到達するのか、正確に把握できていた人はいないだろう。
そもそも、誰もがそんなふうに適確に状況判断できていたとしたら、津波で亡くなる人はほとんどいなかったはずではないだろうか。
結果的にはスタッフの判断ミスであったかもしれないが、未曾有の大災害を正確に予測して判断しなければならないということを求めるのは無理な話だ。

しかし、実際にはいくつもの保育施設を相手に裁判が起こされ、いくつかの裁判で、園側の責任を認め賠償を命じる判決が下されている。

裁判は法律の問題だから、ここでは論じない。倫理的な観点も今はおいておく。

ぼくが疑問なのは、裁判で園側の責任が認められたとして、それで遺族の気持ちは救われるのだろうか、という点だ。

もちろん、ぼくは当事者ではない別の人間だから、その人たちの気持ちはわからない。

しかし、園の対応に過失があったという判決を経て、「ああよかった」「救われた」という気持ちになるとは到底思えないのだ。

他者を責める、「恨み」という感情は、自分を責める「後悔」と同じで、解消が難しい。
「恨み」が生きる原動力になっている、という人も、中にはいるのかもしれないが、それでも、「恨み」をずっと抱えて生きていく、その人生は幸せなのだろうか、と思ってしまう。


しかし、SNSなどをみていると、自分には理解できないが、他者を攻撃することが生きがいのような人がいるようなので、その人たちにとっては、他責的思考は合理的な思考パターンなのかもしれない。
周りにいるひとは大変そうだな、と思うけれど。


そして、最後に「無責的思考」。

「無責的思考」とは、物事の原因を求めない、原因に固執しない考え方だ。

例えば、子供がジュースをこぼしてしまったとする。
自責的な思考パターンの人は「こんなところに置かなければよかった」と後悔し、他責的な人は「なんで気をつけないんだ」と子どもを叱るかもしれない。
それに対して、無責的思考とは、「置いた自分も悪いし、気をつけない子どもも悪いけど、そんなことはよくあるし、仕方がない」「大した問題ではないし、気にする必要もない」というような思考パターンだ。

大雑把に言えば、「しょうがない」「まあいいか」という考え方であると言っても間違いではないと思う。

この考え方のよいところは、ストレスに一応の結論がつけられて、考えを先に進められるところだ。

「不運だったけど、誰のせいでもないし、まあしょうがないな」
「こんなことにこだわっていても仕方がないから、違うことを考えよう」

みんなが同じように考えるわけではないから、そう考えて納得できるかどうかは人それぞれだが、個人的には、ストレスになるような事柄はなるべく早く忘れたいので、「しょうがない」「まあいいか」と考えて、なるべく先に進んで忘れてしまいたいと思う。

もちろん、ストレスの内容によるのは当然だ。
明らかに相手に非があるストレスに対して、「しょうがない」と流せるほど人間はできていない。

しかし、どんなに相手が悪いと思っても、基本的に相手を変えることはできない。
相手を変えようとするのは時間の無駄だし、無駄な努力だ。

なので、「頭のおかしいやつに絡まれちゃったな」「運が悪かったな」というふうに考えて、なるべくそのストレスから距離を置く、ということが、結局は自衛につながる考え方のように思う。

「情けは人の為ならず」という言葉の真意がどこにあるのかはわからないが、個人的には、他人を赦すという行為は、そのストレスにとらわれないで先に進む、という意味で、相手のためではなく自分のための行為であると考えている。
他人を嫌ったり、恨んだりするのはエネルギーを消費する行為だ。好きな人や物事のためにエネルギーを消費するのはかまわないが、嫌いなもののために消費するのは馬鹿げている。だから、「仕方ないな」と考えて、その人を「嫌いな人」ではなく「どうでもいい人」にしてしまった方がよい。


因果応報という言葉がある。
善い行いは善い結果として、悪い行いは悪い結果として、自分に帰ってくるという言葉だが、仏教的な考えでは、過去世(前世以前)の因果も含めた考え方になっている。
つまり、自分が現世でどれだけ善い行いをしても、過去世に行った悪行の報いとして悪いことが起こるかもしれない、ということだ。

前のエントリーで、魂の輪廻を信じないと言ったのに、過去世の因果の話を出すのもおかしいのだが、でも、この「過去世の因果」という考え方は、無責的思考をするのにとても都合がいい。
「こんな悪いことが起こるのも、自分の前世でなにか悪いことをしたのかもしれない」と思うと、すべてのストレスが「仕方がない」と思えるからだ。
宗教というのは現世の人間を救うため、もっと言えば心の救済のためにあるのだろうと思うので、この考え方はとても合理的だと思う。

ぼくのように魂の輪廻を信じない人間は、「運」という言葉に置き換えてもよい。
この世の出来事はすべて、運がいいとか運が悪いとかで説明がつく。
飲酒運転でスピード違反や信号無視を繰り返しても無事に家にたどり着くこともあれば、交通ルールをきちんと守っていたのに信号無視の車に撥ねられることもある。
ずっとヘビースモーカーなのに90まで生きる人もいれば、健康に気をつけて節制していたのに予想もしない病気で早世する人もいる。
何も悪くないのに悪い結果につながるというのは、運が悪かったとしか言いようがない。
そして運は鍛えられない。なので、「仕方がない」と思うしかないのだ。


原因を考えること、それ自体はとても大切なことだが、原因の所在にとらわれることは幸せにはつながらない。

「自分が悪かった」でも、「相手が悪かった」でもなく、「運が悪かった」と考えて、ストレスにかたをつけて先にすすめたほうが、自分の心に余計な荷物を背負わせないで楽に生きられるように思う。

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