囚人のジレンマ

「囚人のジレンマ」という言葉をご存知だろうか。

以下、wikipediaより抜粋:

「囚人のジレンマ(しゅうじんのジレンマ、英: prisoners' dilemma)とは、ゲーム理論におけるゲームの1つ。お互い協力する方が協力しないよりもよい結果になることが分かっていても、協力しない者が利益を得る状況では互いに協力しなくなる、というジレンマである。各個人が合理的に選択した結果(ナッシュ均衡)が社会全体にとって望ましい結果(パレート最適)にならないので、社会的ジレンマとも呼ばれる。」

「共同で犯罪を行ったと思われる2人の囚人A・Bを自白させるため、検事はその2人の囚人A・Bに次のような司法取引をもちかけた。

・本来ならお前たちは懲役5年なんだが、もし2人とも黙秘したら、証拠不十分として減刑し、2人とも懲役2年だ。
・もし片方だけが自白したら、そいつはその場で釈放してやろう(つまり懲役0年)。この場合黙秘してた方は懲役10年だ。
・ただし、2人とも自白したら、判決どおり2人とも懲役5年だ。

このとき、「2人の囚人A・Bはそれぞれ黙秘すべきかそれとも自白すべきか」というのが問題である。なお2人の囚人A・Bは別室に隔離されており、相談することはできない状況に置かれているものとする。

2人の囚人A・Bの行動と懲役の関係を表(利得表と呼ばれる)にまとめると以下のようになる。表内の (○年, △年) は2人の囚人A・Bの懲役がそれぞれ○年、△年であることを意味する。たとえば表の右上の欄(10年,0年)とは,「Aが黙秘・Bが自白」を選択した場合、Aの懲役は10年、Bの懲役は0年であることを意味する。

     囚人B 黙秘   囚人B 自白
囚人A  黙秘 (2年, 2年)  (10年, 0年)
囚人A  自白 (0年, 10年)  (5年, 5年)

2人の囚人A・Bにとって、「互いに自白」して互いに5年の刑を受けるよりは「互いに黙秘」して互いに2年の刑を受ける方が得である。しかし、2人の囚人A・Bがそれぞれ自分の利益のみを追求している限り、「互いに黙秘」という結果ではなく「互いに自白」という結果となってしまう。これがジレンマと言われる所以である。このようなジレンマが起こるのは以下の理由による。

まず囚人Aの立場で考えると、囚人Aは次のように考えるだろう。

・囚人Bが「黙秘」を選んだ場合、自分 (=囚人A) の懲役は2年(「黙秘」を選んだ場合)か0年(「自白」を選んだ場合)だ。だから「自白」を選んで0年の懲役になる方が得だ。
・囚人Bが「自白」を選んだ場合、自分 (=囚人A) の懲役は10年(「黙秘」を選んだ場合)か5年(「自白」を選んだ場合)だ。だからやはり「自白」を選んで5年の懲役になる方が得だ。

したがって、囚人Aにとっては,囚人Bがどのように行動するかにかかわらず自白することが最適な選択ということになる。これは囚人Bにとっても同じであるため、囚人Bも囚人Aと同じ考えによって自白することが最適な選択である。このような理由で2人の囚人A・Bは結果的に「互いに自白」という行動をとることとなる。

重要なのは、「囚人Bが自白してしまうのではないか」という懸念や恐怖から囚人Aは自白するわけではなく、囚人Bが黙秘しようが自白しようが囚人Aは合理的に自白する、という点である。

2人の囚人A・Bにとって「互いに黙秘」することがパレート最適であるにもかかわらず,2人の囚人A・Bがそれぞれ合理的に自白するという「互いに自白」という結果はナッシュ均衡ではあってもパレート最適ではない。

2人の囚人A・Bが「互いに黙秘」することを「協調」と言い換え,「どちらかが黙秘しているとして自分だけが自白して釈放してもらおう」とすることを「裏切り」と言い換えたとき,結果的に両者は「裏切り」を選択することとなる。」


これを、今の状況にあてはめてみる。

①もし社会全体が行動制限したら、オーバーシュートはなくなるだろう。しかし、行動制限は長く続き、おそらく、治療薬が感染者全員に行き渡るようになるか、あるいはワクチンが実用化されるまでの、数年は続くだろう。その間に経済的に困窮する職種が多数あることは言うまでもない。

②もし社会全体が全く行動制限を守らずに活動を続けたら、すぐにオーバーシュートし、医療は崩壊するだろう。適切な治療を受けられないため、高齢者や持病のある人は一定の割合で重症化し、おそらく亡くなるだろう。若い人も少ない割合ながら亡くなる人は出てくるだろうが、多くの人は無症状か、あるいは軽症で改善するだろう。医療崩壊の結果、コロナウイルス感染症以外の病気も適切な治療を受けられないため、通常なら助かるはずの命が助からないケースも出てくるだろう。しかし、この混乱状態はおそらく長くは続かず、人類は人口の数%~10%程度を減らしながら生き残り、経済活動を再開するだろう。

③もし社会の中の一部だけが行動制限を守らずに活動を続けたら、おそらく感染はじわじわと広がり、自分が感染するリスクも日を追うごとに増加するだろう。「一部」の割合次第では、大多数が行動制限をしているのにも関わらず、オーバーシュートし、ほぼすべての経済活動は停止に追い込まれるだろう。もしかしたら医療崩壊にもつながり、助かる命が助からないかもしれない。

この前提で考えてみよう。
(現実的には②はありえないので①か③のシナリオになるが、③は結局②に近い状態につながる可能性がある)


まず、社会全体が行動制限している場合。

自分も行動制限すると①、行動制限しないと③だ。
個人として、どちらが得をするかを天秤にかけたとき、大多数は①のほうが得だと答えるだろう。

それはなぜか。
まずひとつは、自身の感染リスク、というか重症化リスク。
もうひとつは、自身が感染源となることのリスク。
そのふたつがあるので、①のほうが利得があると考えるのだ。

しかし、逆に言えば、このふたつがリスクにならない人には、①を選ぶ積極的理由が乏しいとも言える。
具体的には、若くて、健康で、一人暮らしをしている人にとっては、「自分はどうせかかっても軽く済むし、うつして困る高齢の家族も家にいないのに、なんで年寄りのために我慢しなきゃならないんだよ」と思う人がいても、まあ仕方ないのかもしれない。また、「俺はどうせかかったら助からないから、好きなことをして死ぬんだ」と考える高齢者もいるかもしれない。価値観は多様だから、自分のものさしで測れない人も世の中には存在する。


次に、社会の一部が行動制限できていない場合(今はまだこれに当たると言えそうだ)。

この場合、自分が行動制限しても、しなくても、結局③だ。

自分が行動制限していても、結局自身や家族の感染リスクは増大するし、さらなる行動制限から経済的に困窮する可能性がある。そして、オーバーシュートから医療崩壊につながれば、自分が感染したときに適切な医療を受けられる可能性は低くなる。

自分が行動制限していない場合、自身の感染リスクはさらに増大するだろう。しかし、前述のように、若くて健康な人にとっては、「どうせかかるなら、早くかかって治ってしまえば、あとは気にしなくていいんだからそのほうがいい」と考える人もいるかもしれない(COVID-19の再感染は報告はあるものの極めて少ない)。さらに、遅かれ早かれ感染するという悲観的予測のもとで考えてみると、実は、早い段階で(医療崩壊の前段階で)罹患して、適切な治療を受けられたほうが実はメリットがあるという考え方もできる。つまり、医療崩壊の前提で考えると、高齢であろうとなかろうと、早期にかかって適切な医療を受けられる方が、実はメリットがあるのだ。


つまり、大多数の人にとって、「社会全体が行動制限する」というパレート最適はナッシュ均衡と一致するが、若くて健康な人や、身寄りのない人、現時点で経済的に困窮している人などにとっては、必ずしも一致しない可能性がある、ということだ。
そういう人たちに対して、闇雲に自粛を求めても響くわけがない。

そういう人たちを制限するため、緊急事態宣言や大都市のロックダウンを推進する声があるが、そうなるとほぼすべての経済活動は停滞し、その影響は甚大だ。
「人の命とお金を天秤にかけるのか」という批判はナンセンスだ。不況でも人は死ぬ。それも万単位で。
困窮する人を補償しろとか、消費税を減税しろとか、言っていることは理解できるけど、その財源はどこなのか、考えて言っているのだろうか、と思う。
経済を犠牲にして人命を守れ、でも困った人にはお金を配れ、は完全に矛盾している。


ワクチンが通常以上のスピードで開発されるとか、アビガンなど今ある治療薬の有効性が証明されるとかで、予想以上に早く事態が好転する可能性もないとは言えないが、現時点でそこまで楽観的になれるような状況でもない。
現在の状況が1~2年に渡り持続するとして、医療も、経済も、人々のストレスも、そこまで耐えられるのだろうか。


一個人として、当然のことながら、ウイルスがこれ以上拡散せず、早期に収束することを心から願っているが、一方で、現代社会において過去に経験したことのないこの状況が、今後どうなっていくのか、不謹慎に聞こえるかもだけど、純粋に興味深くもある。

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