「幸福への道」の哲学

以前のエントリーでも書いたが、ソクラテスはその弟子プラトンとの対話のなかで、哲学を「幸福への道」と説き、その幸福への道の哲学とは何かとの問いに、「死の予行演習」と答えた、という。

ソクラテスの考えのすべてはソクラテスにしかわからないだろう。
自分は哲学を専攻しているわけではないけど、この言葉から、自分が思う「幸福への道」について、いろいろ考えている。
彼の言う通り、ただ生きることは人間の生ではない。考えることが大切だ、と思っている。


言うまでもなく、人生は有限だ。あらゆる命は、必ず死を迎える。
そして、死後の世界などない。死はすなわち個体の意識にとっての終わりだ。
自分が死んでも、自分を形作っていた元素は形を変えて残るが、自分という意識はなくなる。それが死だ。

自分も含め、多くの人間にとって、死は、なるべくなら遠ざけていたいものだ。
しかし、一方で、生命は必ず死ぬという避けられない運命がある。
無意識に死を恐れ、考えることを避けていると、死がいつまでもおそろしく、不幸なものであり続ける。
そうすると、人間は、最後に不幸になってその一生を終えることになってしまう。

それまでの人生で、楽しいことうれしいこともたくさんあったはずなのに、最後が不幸で終わるなんて悲しい。
必ず死ぬのだから、自分が死ぬことをときどき考え、そこから逆算して、自分の思う有意義な生を送ること、
それが「死の予行演習」であり、「幸福への道」なのではないか、と思う。


有意義な生、とは何だろうか。
「人生の意味」とか「生きがい」とかに言い換えてもいいかもしれない。
人は、何のために生きるのだろうか。

言うまでもなく、そんなことは個人個人で異なる。
「人生の意味」など、その人の価値観次第だから、それはその人の中にしかない。
人から教えられるものでもないし、正解もない。

ただ、自分の中の「正解」、つまり、「自分はどう生きるべきか」というビジョンを持っているかどうか、それが、
正解のない人生という航路を進むにあたって、灯台のような道しるべになる。

そして、人生は「結果」ではない。
自分以外の他者に、自分の死後に結果で評価されることはあるかもしれない。しかし、主観的に自分の人生を見た場合、死んでしまったらそれを評価する自分がすでに存在しないわけだから、「結果」はあまり意味がない。

つまり、人生には、結果ではなく、過程が重要だ。
死ぬまでにどういう日々を過ごすか、それこそが、生きる意味というものにつながるのではないだろうか。

「100日後に死ぬワニ」がとても秀逸だったのは、まさにこの点だと思う。読者がワニの死をわかっているからこそ、何のオチもない平凡な日々が、とても大切でかけがえのないものに見えたわけだ。
ぼくたちは「10000日後に死ぬ人間」かもしれないし、「100日後に死ぬ人間」「明日死ぬ人間」かもしれない。それは誰にもわからない。確実なのは、「いつか必ず死ぬ人間」であることだけだ。


さて、ここからは、自分自身の人生観の話。

前述のとおり、これはあくまで自分だけのものであり、当たり前だが普遍的なものでは全くない。
そして、この人生観も、あくまで「現時点での」自分の考えから導き出したものであり、この先さらに年齢を重ねたとき、違う人生観を持つこともあるかもしれない。
ただ、現時点で、ではあるが、自分がどういう生き方をすれば幸せにつながるのか、つまり、自分にとっての「幸福への道」が見えている、と思っている。


自分にとっての「有意義な生」は、とてもシンプルだ。
喜怒哀楽のうちの、「喜」と「楽」の感情に支配されている時間が長いこと、それが幸せだと思っている。
怒りや悲しみに支配されず、できるだけ喜びや楽しさにあふれていきていたいし、そうして日々を積み重ねられたなら、死ぬときも、
「ああ、幸せな人生だったな」と思えるのではないだろうか。

そう、とても当たり前のことだ。当たり前すぎる。
でも、その当たり前のことを、みんなが意識して生きているとは、あまり思えないのだ。


もちろん、生きていれば、つらいことや悲しいこと、頭にくること、そういうこともあるだろう。
時には悲しみに支配されてしまう時間も出てくるはずだ。
それをゼロにすることは現実的ではない。

なるべく怒りや悲しみに支配されず、感情をうまくコントロールして、うれしい時間や楽しい時間を見つけ、
その時間をのばすこと、それが、自分の考える幸せの道だ。


怒りについていえば、自分は怒ることが嫌いだ。嫌いというか、意味を見いだせない。
怒りというものはエネルギーを消費する。つまり、とても疲れる。
自分は究極の面倒くさがりなので、面倒くさくて怒りを持続させられない。
同じ理由で、誰かを嫌いになるのも、極力避けたい。
嫌いな人のために、なんでわざわざエネルギーを浪費するなんて心底ばからしいと思ってしまう。
どうせなら、楽しいことや、好きな人のために、自分のエネルギーを使いたい。

だいたい、自分が嫌いな対象に何か意見したところで、その人が意見を変えてくれるとは到底思えない。
他人を変えることはできないので、無駄なことはしないほうがいい。

怒りというものは、ほとんどの場合、他責的(他罰的)思考から生まれる。
「無責的思考のすすめ」というエントリーでも書いたが、個人的には、他責的思考はあまり幸せと結びつかないと思っている。

日本人の美徳は配慮と謙虚さだと思っていて、何か不満があった時でも、「相手にも何か事情があったのかも」とか、
「自分も相手を責められるほど完璧な人間じゃないし」とか考えて、(程度の問題はあれ)自分の胸の内にとどめておくことで、
古き良き日本人は、人間関係を円滑に行ってきたんじゃないかと思う。
こういう配慮や謙虚さというものは、相手のために見えて、実のところ、相手を責めずに「仕方がない」と思うことで自分の気持ちを切り替えて先に進めるという無責的思考に通じており、相手のためではなく自分のためになっているのだ。

いつまでも怒りにとらわれていることは、幸せに通じる道ではない。
「許す」とはいかないまでも、「どうでもよいこと」にして、忘れてしまう方が、幸せな時間を増やすことに通じるのではないだろうか。


ただ、悲しみに関しては、避けようのない出来事もあるし、切り替えようにも、簡単にはいかない場合もある。
悲しみをいやすには、程度の差はあれ、どうしても時間が必要だ。
そのあいだ、無理に悲しみに触れるようなことはせず、不必要に自分を責めることもしなければ、多くの場合、時間が解決してくれる。
これも、怒りと同じく、責任の所在を必要以上に追求しない、無責的思考が必要だと思う。
悲しみを消したり、忘れたりしようとするのではなく、結晶化させて、心の奥にしまっておくというイメージだろうか。


そして、「うれしい」や「たのしい」という感情も、新たに見つけるというよりは、「今あるもののなかで、喜びや楽しさを見つける」ということが大切なのではないかと思う。
幸せの青い鳥を探すことに時間と労力を費やすより、すでに自宅にいる青い鳥に気づくことの方が、はるかに簡単だし、重要だ。
人間は、ともすれば、自分が持っているもの、できていることに対して、無自覚で、当たり前と思ってしまう。
健康であること、家族があること、衣食住が確保されていること、友人がいること、仕事があること、暖かいこと、晴れていること、普段意識しないで当たり前にとらえているようなことも、それに気づけば、ありがたいことだと思える。
「足るを知る」という言葉がすごく好きなのだけれど、これはまさに、幸せの青い鳥が、実は自分の家にいた、ということに気づくことだ。


他人と比較しないことも必要だ。
幸せというものは主観的なものだ。他者と比べて相対的に決まるものではない。
だから、お金をたくさんもっていることが必ず幸せにつながるわけではないし、友だちは多ければ多いほどいい、なんてことは全くない。
貧しくて、友だちがひとりもいなくたって、本人が幸せならそれでいいのだ。
自分だけの、「うれしい」や「たのしい」をたくさんみつけることができれば、それが幸せに通じる道だと思う。

世の中は、とかく、「スキルアップ」や「成長」などという言葉がもてはやされ、noteでもそういうエントリーをたくさんみかける。
成長するために努力することが幸せに通じると思っている人はもちろんそうしたらいいが、万人が成長のために努力しなければならないなんて、そんな話は全くない。
月に1週間だけバイトをして、あとはだらだら暮らしたっていい。
その生き方の是非を決めるのはその人自身だし、その人がそれで幸せなら何の問題もない。
そもそも、空いた時間で、ぼんやりと人生や死について考えることだって、それは成長ではないだろうか、と思う。


怒りや悲しみ、つらさに支配されて、喜びや楽しさを感じられない毎日が続くと、人は、生きる意味を見失ってしまう。
何のために生きているのか、誰のために生きているのかわからなくなり、生きていることがつらくなってしまう。
そして、真面目な人ほど、そこで、「自分の努力が足りないのだ」とか「自分がもっとがんばらなければ」とか考えて、
自分で自分の逃げ道を塞いでしまい、さらに追い詰められてしまうのだ。

当たり前のことだと思うので、あえて断言するが、人間は、他の誰のためでもなく、自分のために生きている。
なので、自分の生き方に疑問を感じたら、いつでもそれを捨てたり、変えたりする権利があるはずなのだ。

もちろん、それが簡単でない場合もあるだろう。
仕事や子供、親、家のことなど、さまざまなしがらみが存在することは事実だ。

しかし、究極的には、そういう重大なことであっても、取捨選択する権利が本来あるはずなのだ。
以前も書いたが、どうしてもつらい仕事はやめたらいいし、子供や親の面倒を見なければならないという決まりはない。
「自分が面倒をみなければ」という考え方は、あえて意地悪な言い方をすれば「自分が面倒をみなければ(不幸になる)」ということで、
他人の未来を決めつけてしまう偏った考え方とも言える。
前回のエントリーで書いた「ぼくは勉強ができない」の主人公、時田秀美くんが受けてきた、「片親はかわいそう」という偏見と同じだ。
親が離婚している子供はみんな不幸なのだろうか。児童養護施設に入った子供はみんな不幸なのだろうか。
介護施設の方が、介護のプロが交代で24時間介護にあたるわけだから、自宅で介護するより幸せな場合だってあるんじゃないだろうか。
幸せかどうかを決めるのは親や介護者ではなくて、本人であるはずだ。


それぞれが、主体的に自分の生きたいように生きること、怒りや悲しみにとらわれずに幸せな日々を送ることが、自分の考える、幸福への道だ。

そして、いつ来るかわからない、明日来るかもしれない、「死」というものを意識することで、生の意味はより輝く。

哲学が「幸福への道」であり、「死の予行演習」であるというソクラテスの言葉を、今の自分はそのように解釈している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?