民話「姥捨て山」は「ひどい話」なのか

再び東京を中心に新型コロナウイルスの感染者が増加しているなかで、やはり再出すると思った、「姥捨て山」理論。

「その前に政治が果たすべきことがあるのではないだろうか。」と書いていながら、具体的にどういう施策をとればよいのかは書かれていない。

「科学は人工呼吸器を開発したのに、政治はそれを必要とする人が誰でも、いつでも使用できる社会を作ることができなかった。」ふだんはそこまで数を必要としない超高額な人工呼吸器を、必要だからといってすぐに10倍に増やす、ということが可能だと思っているのだろうか。
「『経済を止めることはできない』と生産性のことしか政治家はいえないのだろうか」というが、それこそまさに経済の問題だ。


これは極めて個人的な意見だが、若い世代の意見ならともかく、このような意見が老人から出てくるととても幻滅してしまう。
自分は若者より老人に近い世代になるが、さらに歳をとっても、若者にこんなことを言う老人にだけはなりたくないと思う。


そして、こういうときに決まって引用される「姥捨て山」。
個人的には、姥捨て山の民話が伝えているものと、この類いの論説が用いる「ひどい話」というニュアンスと、意味合いが異なっているのではないかと感じていた。

民話「姥捨て山」はどういうお話だったのか、改めて調べてみた。

「難題型」「枝折り型」それらの「複合型」があるようだ。
自分が読んだことがあったのはその「複合型」だったと思う。

・難題型
ある国の殿様が、年老いて働けなくなった者は役に立たないから山に捨てよという非情なお触れを出す。ある家でもお触れに逆らえず、息子は泣く泣く老親を山に捨てようとするが、結局捨てることができず、密かに家の床下にかくまって世話をする。しばらくの後、殿様が隣の国からいくつかの難題を持ちかけられ、解けなければこの国を攻め滅ぼすと脅されるが、息子はそれらの難題を老親の知恵によって見事に解いてみせる。隣の国は驚いて、このような知恵者がいる国を攻めるのは危険だと考え、攻め込むのをあきらめる。老人のすばらしい知恵のおかげで国を救われたことを知った殿様は、老人を役に立たないものと見なす間違った考えを改め、息子と老親にたくさんの褒美を与えると共に、お触れを撤回し、その後は老人を大切にするようになった。

・枝折り型
山に老いた親を捨てるために背負っていく際に、親が道すがら小枝を折っている(あるいは糠を撒いていく)のを見た息子が何故かと尋ねると、「お前が帰るときに迷わないようにするためだ」と答える。自分が捨てられるという状況にあっても子を思う親心に打たれ、息子は親を連れ帰る。

他に、年老いた親を捨てに行く際に子供も連れて行くが、担いできたもっこごと親を捨てようとする。すると、子供から「おっ父を捨てるときに使うから、もっこは持って帰ろう」と言われ、親を捨てる非道さに気付き(あるいは我が身に置き換えて恐怖を思い知ったため)姥捨てをやめるという内容のものがあり、同様の物語は中国やヨーロッパ、アフリカなど広範囲に分布している。枝折り型のあとに難題型が続く複合型、また数は少ないが、嫁にそそのかされた息子により一度は山に捨てられるが、知恵により鬼から宝を巻き上げ財を成し、猿真似をした嫁は命を落とすという嫁姑の対立がテーマになっているものもある。

(wikipedia「うばすてやま」より引用)


「難題型」で、殿様が考えを改めたのは、「老人のすばらしい知恵のおかげで国を救われたことを知った」からであり、「老人を役に立たないものと見なす」ことを「間違った考え」であると認識したからだ。

「枝折り型」で、息子が親を捨てずに連れて帰ったのは、「自分が捨てられるという状況にあっても子を思う親心に打たれ」たからだ。

つまり、どちらも、老人が「自分を捨てるなんてひどい」「やめてくれ」と訴えた結果として捨てられなかったわけではない。
殿様も、息子も、自分自身がそうしたいと思って撤回しているのだ。


この話を、無理やり今の状況に置き換えてみよう。

・難題型
老人たちが、今まで生きてきたなかで蓄積した経験や知識を用いて、今の新型コロナウイルスの諸問題を劇的に改善し、世の中のみんなが「やっぱり老人はすごい」と再認識する。

・枝折り型
高齢者が、「若い人はほとんど重症にならないのに、自分たちを助けるためにみんなが経済活動を止めて苦しい思いをするのは忍びないから、どうか、自分たちの命よりも若い人たちの生活を助けてやってくれ」と話し、それに心を打たれた若い世代の人々が、自主的に、なんとかみんなで助かる方法を考える。

こんな感じになるのかなと思う。


自分は若者ではなく高齢者側に近い人間として話しているが、若者より確実に生産性(遺伝子を残すという意味でも、経済活動という意味でも)が落ちる老人たちが、無条件に、「若者は我慢しろ」「高齢者を守れ」と居丈高に言うのは、はっきり言ってとても見苦しい。
守ってほしいと思うなら、自身の有用性を示すべきだし、それができないなら、若者に「お願い」すべき立場なはずだ。
「歳が上だから敬うべき」なのではない。知識や経験があり、それが実際に役に立つから敬われるのだ。自分を犠牲にしても若者を思う心が敬われるのだ。


それが民話「姥捨て山」の、本来の解釈なのではないかと思う。


倫理観や道徳哲学などと呼ばれるものを一切抜きにして、純粋に生物学的な種や遺伝子の保存という観点からみると、老いた個体は自身が直接遺伝子を残す力はないため、子や孫世代の個体の役に立つことが種に対する唯一の役割である。

コチドリやキジ類の鳥は、卵や雛を外敵から守るため、親鳥がけがをしたようによそおって、外敵の注意を自分の方へ向けるという、擬傷と呼ばれる行動をとる。


ハサミムシの母親は2ヶ月前後も飲まず食わずで卵を敵から守り、最終的に、孵った幼虫たちによってその身を食べられてその一生を終える。

若い世代の命を守るために、命の最期の輝きを使う。
こんな美しい最期がほかにあるだろうか。


自分は、自分の子供でなくても、若い世代の誰かが自分のために犠牲になるような状況になるくらいなら、喜んで自分が見捨てられる方を選びたい。
昨日のエントリーに書いたとおり、「人生の価値は終わり方」にあるとしたら、若い世代の犠牲になって最期を迎えるなんて、これ以上ないくらい最高の「終わり方」なんじゃないかと思う。
少なくとも、若い世代を犠牲にしてまで生に執着して死ぬよりも、よっぽど死を受け入れられる気がする。


これは、自分の個人的な価値観というか、美意識であるから、自分以外の誰にも強制する気はない。
でも、だからこそ、自分がこう考えていることに対して、他の誰にも批判される筋合いはないと思っている。


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