運命を受け入れる強さをぼくに

このnoteは自分が考えていることを記録しておくためのもので、言わば自分の哲学的実験の場であるから、今回の話は大多数の人には同意が得られない内容だと理解しつつ、記しておこうと思う。


利己的遺伝子論を唱えるリチャード・ドーキンス博士によれば、すべての生物は「遺伝子の乗り物」なのだという。
生物が子孫を残すことで遺伝子は行き続けていくから、生物はその時代における遺伝子の乗り物にすぎない、ということだ。

確かに、人間以外のすべての生物は、子孫を残すことを至上命題とし、その次に個体の命を優先する。
オスのカマキリが交尾のあとにメスに食べられるのは、結果的にその方が子孫を残す確率が高いからだし、
ひな鳥が敵に食べられそうになっているときに、母鳥が怪我をしているふりをして敵の前に姿をあらわすのは、自分のほうが逃げ切れる確率が高いのと、子の世代に受け継がれた遺伝子を生き延びさせるためだ。

ハサミムシの母の最期はあまりにも壮絶で尊い 生まれてきたわが子にすべてを捧げて逝く
https://toyokeizai.net/articles/-/314659?page=2

板垣先生によると、ハサミムシの母親は卵を産んだあとに1ヶ月半、場合によっては2ヶ月以上も飲まず食わずで卵を守り続けるが、卵が孵ったあとの母親の最期の仕事は、生まれたばかりの赤ちゃんハサミムシによって食べられることだという。
母親から子への深い愛情は非常に尊いものに思えるが、生物の本能とも呼ばれる、遺伝子の命令を考えれば、遺伝子を残すことは個体の命を守ることより優先される命令だから、生物の行動としては合理的なのだ。


さて、人間も生物である以上、利己的な遺伝子の乗り物にすぎない。
親が自分の命を犠牲にして子を守る行為や、そこまで行かなくても、自分の欲求を犠牲にして子供のために時間やお金を割く行為も、自分の遺伝子を守るための行動であるから、遺伝子の思惑通りだろう。
個人が自分を犠牲にして集団のために尽くすなどして、結果的に個人としては損をする行為をすることもあるが、自らの遺伝子ではないにせよ、人間という種の遺伝子を守るための行動としては理にかなっている。

しかし、一方で、ドーキンス博士は、「ミーム」という、文化的遺伝についても言及している。
文化的遺伝は、遺伝子のような物理的な構造物ではないが、知識や文化などを他人に伝え、集積・改良しながら後世に伝達していく遺伝様式だ。
ドーキンス博士によれば、人間だけがこのミームを持っており、これによって遺伝子に反逆することができる、と言っている。

確かに、この「ミーム」により、人類は生き方の多様性を手に入れた。
現代社会では、遺伝子の至上命題であった「子孫を残すこと」についても個人の自由に委ねられている。
そして、認められているかどうかは別として、自分の意志で自らの生命を終わりにする行為も、人間だけが持つ権利だ(レミングの集団自殺説は誤りであることがわかっている)。

こんなふうに遺伝子の命令に刃向かえる生物は人間だけだ。
人間は文明の進歩により、遺伝子の自動制御システムを自ら外して自由を手に入れたのだ。


ただ、その結果、人類は幸せを手に入れたのだろうか。


あまり報じられないが、少子化問題について、認識しておくべき事実がある。

少子化は、お母さんが産む子どもの数が減ったからではない
https://comemo.nikkei.com/n/n857d9b6f6b61

とても大事な問題だから記事を読んでほしいが、要点はこうだ。
「既婚女性の出生率は30年前とかわっていない」
「つまり、既婚率の低下がそのまま出生率低下につながっている」

女性の権利が向上したというと怒られそうだが、それでも、今が人類史上最高に女性の権利が認められている時代であることは間違いないだろう。
女性だけの問題ではないが、既婚率の低下(=結婚率の低下+離婚率の上昇)は、特に女性において生き方の多様性が認められてきたことによるものといえる。
つまり、結婚しない生き方、子供を持たない生き方が、世の中において認められるようになった結果だ。
(もちろん、結婚はひとりでするものではないから、既婚率低下は男性側の要因もある)。

言うまでもないが、これは善悪の問題ではない。
女性の権利が認められるようになったことは、現代を生きる女性にとっては喜ばしいことだろう。

しかし、その結果として、アフリカを除く全ての国々で、出生率は急落している。
平均寿命は伸びているから、少子高齢化が加速していくことは必然だ。

荒川氏も書かれているが、待機児童解消などの、共働き家庭への支援は、少子化対策ではなく子育て支援である。
上でも書いたとおり、既婚女性の出生率は変わっていないのだから、子育て支援は根本的な少子化対策にはなり得ない。
根本的な少子化対策は結婚率を上げることだが、乱暴に言えば、それは、生き方の多様性を否定する行為だ。
現時点で、すでに、結婚したい人はしているだろうし、子供を持ちたい家庭はもっているだろう。
そこに「結婚しなさい」「子供を生みなさい」と強制することはできない。
「結婚はまだか」「赤ちゃんはまだか」と言ってくる無神経な親族は言わば少子化対策委員だが、それが有効とはとても思えない現実を見れば明らかだろう。

そして、少子高齢化が加速していく結果、人類はその総数を徐々に減らし、人口比率もほとんどが高齢者となる。
現実的に取りうる、どんな対策を施しても、この流れは止められない。

(あくまで生物学的な話だから侮蔑的な意味合いはさらさらないが)生殖能力のない老いた個体が増加し、これから遺伝子を残せる可能性のある若い個体がどんどん減少する。そして、種としても個体数を徐々に減らしていく。


個人的には、恐竜が絶滅したように、人類もいつかは絶滅する時が来るのだろうと思っているし、そもそも太陽が50億年後に死ぬと地球もなくなってしまう可能性が高いから、人類の永遠の繁栄など予想していない。
ぼくがとても興味深いと感じるのは、人間を他の生物と決定的に違う生物たらしめている「ミーム」というものが、結果的には、(一時的に、かもしれないが)種としての衰退への道を、おそらく加速させているという点だ。
囚人のジレンマで言えば、各個人が合理的に選択した結果であるナッシュ均衡が、社会全体というより人類という種にとって望ましい結果(パレート最適)になっていない、ということだ。

遺伝子にとっての至上命題である「遺伝子を残す」という本能に逆らい、個体の幸せを優先するようになった時点で、この方向性は必然だったのかもしれない。


さて、前のエントリーでも書いたが、現在、人類を危機的状況に追い込んでいる病原体は、多くの若年者にはほとんど害をなさず、年齢が上がる、あるいは持病が増えるにつれて危険が増していき、持病の多い高齢者ではそれなりの確率で致死的である(中国の統計では60代3.6%、70代8%、80代以上18.4%が死亡、イタリアもほぼ同様)。

もし、人類が何の対策もせずにいたら、またたく間にこの病原体は蔓延し、医療も追いつかないため、死亡率はこの統計以上に上昇する可能性がある。
しかし、重症化するのはほとんどが高齢者、特に心疾患などの持病のある高齢者だから、特に死亡率が上昇するのは高齢者であり、60歳以下はそこまで顕著ではないと予想される。


一旦少子高齢化の話に戻る。
前述のように、少子化はもはや必然であり、有効な対策はない。
そして、人類にとって寿命が伸びるのは喜ばしいことだから、高齢化も必然で、こちらも当然ながら対策はない。
その結果として、世代間格差や経済規模の縮小、社会保障制度の破綻など、さまざまなリスクに晒されているが、これといって有効な現実的対策がないまま、どんどん少子高齢化は進行している。


このウイルス後の世界を考えてみる。
感染爆発しても、しなくても、このウイルスによって人類が滅亡することはない。
人類は、人口の数%~10%程度を減らしながら、このウイルスを克服する。
そのときに生き残れないのは、ほとんどが高齢者だから、必然的に、生き残った人類の平均年齢は低下するだろう。

少子高齢化が急加速していた人類にとっては、この厄災によって、結果的に高齢者の人口が減少し、少子高齢化の解消が予定より早まるのかもしれない。
過去から現在への人口動態を見れば、現在の人口は明らかに増えすぎている。
結果的には、この厄災をサバイブしたあとで、新しい世の中の形が見いだせるのかもしれない。


遺伝子にとって個体は遺伝子の乗り物に過ぎないとすれば、遺伝子の司令に従わず、遺伝子を残すことより個体の幸せを追求し始め、結果として少子高齢化が進んでしまった人類を、遺伝子は苦々しく思っていたかもしれない。
あくまで遺伝子の立場で考えれば、の話だが、高齢者が大多数を占め、若年者が少なくなる社会など、デメリットしかないからだ。

しかし、遺伝子は利己的なようでいて、人類という種の存続のためには、極めて合理的判断を下す存在である。
間違いなく、それぞれの個人の誰よりも、大局的に、種の存続のことを考えている。

そんな遺伝子にとっては、このウイルスの影響は、厄災ではないのかもしれない。


いつも考えることがある。
「神」とは、誰にとっての「神」なのだろうか。
結果的に、だが、人類を少子高齢化という問題から救ってくれる病原体は、「神の思し召し」とは言えないのだろうか。

生物にとって死は必然で、避けることができないものだ。
不条理な死に方はあるかもしれないが、死そのものは不条理ではない。

神様は、人類が間違った方向に進んでいたとしても、「それでいいんだよ」と肯定してくれるのだろうか。
それとも、人類が間違った道に進もうとしていたら、何らかの手段を使って修正をはかろうとするのだろうか。
前者は個体の幸せに寄り添い、後者は種としての幸せに寄り添っていると言え、その意味ではどちらも人類のためを思ってくれているわけだが、もしかしたら神が人間に下すアクションは真逆かもしれない。


小沢健二の「天使たちのシーン」という曲に、「神様を信じる強さをぼくに」という歌詞がある。
神なんているわけがないと思っていた若い自分にとって、この歌詞はとても印象的だった。
生きていると、ときに、受け入れがたいような悲劇に見舞われることがある。「神なんていない」と思うほうが自然だ。
しかし、本当は神はいないのかもしれない、それでもなお、神の存在を信じる、それが強さなのかもしれない、そんなふうに感じた。


ぼくは決して、このウイルスを甘く見ているわけではない。
自分は高齢者ではないから軽症で済む可能性のほうが高いけど、若者でもないから、もしかしたら重症化して死ぬかもしれない。でも、未知の感染症で人口が減るのは過去に何度も繰り返されている。誰のせいでもない。

自分が助からないとなったら、せめて、心穏やかに死にたい。
自分の親が亡くなったとしても、誰も責めないでいたい。


ぼくは神を信じていないので、神様に、ではなく、自分に対して願う。
運命を受け入れる強さをぼくに。

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