バランス理論と、全か無か思考

安倍さんが星野源さんの動画を引用した動画をtwitterとインスタグラムにあげて、一部の人たちに批判されているらしい。

ちなみに安倍さんは動画のなかで何も言葉を発さず、ただ犬をなでたりテレビをみたりしており、文章の方では、こうしたアーティストたちの取り組みに感謝を述べ、人々へさらなる協力を求めているだけで、どのへんに批判される要素があるのかわからないのだが、批判をみると、「アーティストを政治利用している」とか、「補償は有耶無耶なのに都合のいいときにアーティストを利用するな」とか、「この大変なときに何をくつろいでるんだ」とか、そういう内容のようだ。

この、明らかに理不尽な批判は、社会心理学における「バランス理論」で説明できる。


バランス理論
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%90%86%E8%AB%96

バランス理論とは、簡単に言うと、「自分の好きな人には自分の好きな物を好きでいてほしい」、そして、
「自分の嫌いな人には自分の好きな物を嫌いでいてほしい」と考えがちである、という理論だ。

wikipediaの例で言えば、自分が好きな同級生には自分が好きなサッカーを好きでいてほしいし、自分が嫌いな同級生にはサッカーを好きでいてほしくない、ということだ。

これに当てはまらない場合、つまり、自分が嫌いな同級生が自分と同じくサッカーを好きな場合、または、自分が好きな同級生が自分とは異なりサッカーを嫌いな場合には、認知体系の不均衡を生じる。
この状況は不快感に通じるので、これを解消するため、自分がその同級生のことを嫌いになるか、その同級生をなんとかしてサッカー好きにするか、あるいは自分がサッカーを嫌いになるか、いずれかしかない。

現実的には、自分がとりうる選択肢の中で、最もコストの少ない方法を選択することになる、という理論だ。


安倍さんのことも星野源さんのことも好きなひとは、最初から認知体系の不均衡を生じていない。
逆に、安倍さんのことが嫌いで、星野源さんのことも嫌いな人も、認知体系は一致するので「やっぱりな」で終わる。

不均衡を生ずるのは、「安倍さんは嫌いなのに星野源さんは好き」という人か、「安倍さんは好きだけど星野源さんは嫌い」という人だ。
おそらく、後者はほとんどいないと思われるので、ほとんどの人は前者なのだろう。

つまり、自分の嫌いな安倍さんは自分の好きな星野源さんを好きでいてほしくないし、自分の好きな星野源さんは自分の嫌いな安倍さんのことを嫌いでいてほしいわけだ(ちなみに現時点で星野源さんはコメントを出していないし、たぶん出さないけど、星野さんが首相に対して好意的なコメントをするとさらに荒れるのだろうな、と思ったりしている)。

これを解消するための方法は、「安倍さん(もしくは星野源さん)に星野源さん(もしくは安倍さん)のことを嫌いにさせる(コラボさせない)」、または、自分が星野源さんを嫌いになるか、どちらかしかない。
(もうひとつ、自分が「安倍さんを好きになる」という方法もあるけど、たぶんその選択肢はないのだろう)

なので、星野源さんを嫌いになりたくない人は、コラボを批判し、やめさせようとするわけだ。

ちなみに、アイドルやタレントが政治的発言をして批判されたりしているが、そこで「ファンをやめる」とか言う人はたいていファンではない。本当に好きなのに「ファンをやめる」というのは、個人にとってコストが高いから、ファンはどうにかして発言を取り消させようとするのだ。


このバランス理論に説明される、認知体系の不一致による不快感というものは、多かれ少なかれ誰でも持っているだろう。
ぼくも、自分の好きなアントラーズの選手を、自分が好きじゃないライターに褒められ、複雑な気持ちになったことがある。

しかし、バランス理論は、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というやつで、全然関係のない事柄にまで自分の認知が影響されてしまうというのは、本来あまり健全な認知ではないと思う。

安倍さんとコラボしようがしまいが、星野源さんの楽曲や歌の素晴らしさは何も変わらないはずだ。
それなのに、好きだった人や曲が好きでなくなってしまうというのはもったいない話だ。

そもそも、安倍さんが嫌い、という認知自体が、バランス理論に基づく感情なのだろうと思う。
自分の好きな人が安倍さんのことが嫌いだったり、自分の好きな物を好きな人たちが安倍さんのことを嫌いだったりで、「安倍さんが嫌い」という認知が作られているのだ。
「安倍さんのこういうところが嫌い」は、たいてい後付けだ。それならば、政権をとっていたときの旧民主党のことも嫌いにならないと整合性がない(桜を見る会とか、消費税増税とか、災害時の対応とか)。まあ、そもそも、日本は首相の一存ですべてが決まるような独裁政権ではないのだけれど。


本来、人も、物も、好きなところと嫌いなところがあって当たり前だから、単純に「好き」「嫌い」で分けるべきではない。
好きな人の内面にも合わない部分は必ずあるし、嫌いな人の考え方に共感することだってある。

物事を白か黒かの2択で考えるような認知の歪みを「全か無か思考(all or nothing thinking)」という。
人を「好き」か「嫌い」かで分ける考え方は、まさに全か無か思考だ。
好きな人だからってすべて共感するわけではないから、鵜呑みにするのは危険だし、嫌いな人が言っていることも共感できることもあり、その点についてはちゃんと評価すべきだ。

孫正義さんが3月上旬頃に「100万人にPCR検査をする」と言い、すぐに撤回したことがあった。
そのときはぼくも批判的だったが、批判されてすぐに撤回し、方針転換してマスクの増産を支援することとし、昨日(4/11)のツイートによれば、5月から月産3億枚のマスクを政府と連携して無利益で届けるということで、
これが本当であれば、ものすごく素晴らしいし尊敬できることだと思う。
小池都知事についても、個人的には、選挙のときのゼロ公約はどこに行ったのかな…と思うし、支持していなかったけど、今回の都知事としての仕事ぶりに不満はないし、私を犠牲にして仕事をしてくれる姿には尊敬しかない。

ぼくは孫さんも小池さんも、知り合いではないから、好きでも嫌いでもない。
発言や行動という「ファクト」に対して、批判したり尊敬したり応援したりしているのだ。
つまり、好きとか嫌いとかいう主観ありきではなく、個々のファクトに対して評価すべきで、その個々の評価の総合が好きとか嫌いとかの主観を形成するべきだと思う。


「全か無か思考」は、完璧主義的思考、と言い換えてもいい。
常に100点を求め、95点だったとしても「100点じゃなきゃ0点といっしょだ」と考えてしまう。
実際には95点でも充分すぎるほど高得点なのだが、現実には、結果や成果というものはテストの点のように数値化されない。
そして、特に日本人は、加点より減点を大きく捉える傾向がある。
つまり、できた95点分より、できなかった-5点分を大きく捉えてしまい、「うまくいかなかった」と悲観しがちなのだ。

この世に完璧な人間なんていない。いたらそれは人間ではない。
完璧でない人間がやることだから、間違うこともあるし、うまくいかないこともあるだろう。

特に、政治の世界に100点は存在しない。
国民ひとりひとり能力も違えば価値観も違うのだから、すべての人が100%満足する政策などあるはずがない。
これをどれだけの人が理解しているのだろう。


コロナウイルスに対する30カ国を対象とした世論調査の結果が、日本の特異性をあらわしている。

コロナウイルスに関する世論調査 -30カ国グローバル調査-
https://www.nrc.co.jp/report/200409.html?fbclid=IwAR1QSZ3CUUykX6gZWwRhKDshG2IZC1Dbbs6xJ1SSgFFDzWjCXqj-4l3VNl4

いろいろ興味深い結果なので詳しくはリンク先のpdfを参照してほしいが、個人的に悪い意味で日本らしいなと思うのは、

「②自国の政府はコロナウイルスにうまく対処していると思うか」の問いに23%しか「そう思う」と答えず29カ国中28位だった点と、

「④ウイルスの拡散防止に役立つならば、自分の人権をある程度犠牲にしてもかまわないと思うか」の問いに「そう思う」と答えたのがたったの32%で、ダントツの最下位だった点だ。

まず②だが、この調査は3/9~22に行われており、徐々に深刻さが理解されつつあったとはいえ、クルーズ船を除く感染者がまだ1000人、東京都の新たな感染者数が一桁だったときの話だ。
その時期なのに、「政府がうまく対処している」と評価したのは、たったの23%なのだ。
逆に、この時点で世界でいちばん死者を出していたイタリアでは、なんと72%の人が「政府はうまく対処している」と答えている。
この時点でこれだけ抑えられていたのにこの低評価。いかに日本が政府に対して批判的であるかがわかるだろう。

④はさらに異質だ。
この調査の時期は、3/20に首相よりイベントの自粛要請があったが、今よりもずっと言葉は柔らかかった。
「全国規模の大規模イベント等の開催については、中止、延期、規模縮小等の検討をお願いしてきたところですが、今回、専門家会議から大規模イベント等について、主催者がリスクを判断して慎重な対応が求められるとの見解が示されたことから、今後は、主催者がこれを踏まえた判断を行う場合には、感染対策のあり方の例も参考にしてください。」という文面で、その週末にK-1が強行され批判されたことは周知の通りだ。
つまり、この調査の時点で②のように「政府の対応がよくない」と批判している人は、もっと規制を強化すべきだと考えていたと考えられる(規制と補償はセットだ、という意見も含む)。
それなのに、④のように、「自分の人権をある程度犠牲にしてもよいと思うか」の問いには、たった32%の人しか「そう思う」と答えていない。
つまり、「規制は強化しろ」「でも自分の権利は守れ」という、矛盾した要求をしているということになる。

ぼくはすぐに「海外では~」とかいう出羽守は嫌いだし、日本も日本人も大好きだが、日本人はもっと、権利を主張する割に義務や責任について無頓着であるところを自覚すべきだし、改善が必要だと思っている。


完璧でもなく、未来も見えない人間が、未知のウイルスに対して、医療や公衆衛生、経済、政治、それぞれの専門家がそれぞれの立場から意見を出し合い、刻々と変化する状況に対し、肉体的にも精神的にもすり減らしながら、その都度対処している。それが現状だ。

これを批判している人は、神か何かなのだろうか?未来から来た人ですか?

そうでないなら、こんなときくらい、協力しようよ。
できていないことを批判するのではなく、できていることを評価しよう。
間違っているかもしれないけど、とりあえずやってみて、問題があったらまた検討すればいい。というか、それしかない。
何が正解かは誰にもわからない。世界中の国が、1ヶ月前に言っていたことを撤回するような状況なのだ。

国の専門家が毎日意見を出し合い、ギリギリのところでバランスをとってくれている。
それをもっと評価し、みんなで応援するような姿勢になったらいいのにな、といつも思う。

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