BORDERLESS‘20を終えて

世の中は今新型コロナで
毎日とてつもないスピードで
ギスギスしていってる。

その瀬戸際で
ギリギリに開催された
今回のBORDERLESS’20。
多分1週間遅かったら
開催はできなかった気がする。

今回は
去年の9月に亡くなった
ばあちゃんとの最後の3日間の思い出を
ハーフカメラで記録していたものを展示した。

彼女がもうすぐ亡くなるとわかった時
私は写真を撮ろうと決めていた。
それは誰かに見せるためでもなく
良いとか悪いとかからも関係ないところで
彼女と自分の最期の時間を
ただ丁寧に撮りたいと思ったのだ。
自分にはそれしかできないから。

だから本来ならば
展示しなくても良かったのだけど
上がってきた写真を見て
私はこれを展示しようと思った。
それをする必要を自分に感じた。
自分の中の挑戦を感じたのだ。

あまりに私的なものなので
ついてこれないかもしれない。
それがただ一つの懸念だった。
人に見せる以上、私はこれを思い出として
あの壁にただ貼り付けるのではなく
作品にしなければならないと思った。

この展示で伝えたいことは何なのか。
それを伝えるために必要なことは何なのか。

悲しく切ないものであってはならなかったし
自分とばあちゃんの関係性が
伝わるものでなければならなかった。
淡々と流れていく時間の表現、
死が持つ独特の色や
涙のフィルターがかかったような滲み
そこにいない空白感、
どの場面を強調して、どの場面を削るのか。
そういったことを考えながら作品にした。

ただギャラリーの動線を考えていなかった。
これは本当に失敗。
ギャラリーの特性上
左から右に見ていく動線の中で
自分の写真はスキャンをつなげてしてるので
右から左に時間が流れていく形。
だから、蝶の写真が最後でなくてはならない。
のに蝶が途中で登場することになる。
変な違和感を与えたかもしれない。
展示でこれほどの失敗をしたのは初めてだ。
正直だいぶ凹んだ。

だからあんまり振り返りたくないのだけど…

今まで自分は
こう言う記録の写真を撮ってこなかった。
人を撮ることもほとんどないし
新しい面を出せたかなあ、とも思う。
ゴミみたいな写真しか撮ってこなかった中で
残したいと思って撮ったのは
初めてのことかもしれない。
そう言う記録写真を
作品というものに昇華したことも初めてで
それはすごく良い経験になったなあと思う。

自分とばあちゃんの思い出が
見る人の持つ思い出に重なったり
涙を堪える人や
実際にポロポロと泣いている人がいたり。
表現として認めてくれた人がいたり。

自分が結構
写真を撮る人だという意識が
高いことも再認識したし
表現と発表の違いとか
考えるきっかけにもなった。
展示をやると気付きが多い。

大変な状況の中、
来てくださった方には感謝しかない。
本当にありがとうございました。




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