表現と完璧主義と孤独

展示を「する」ことが好きな人と
私はどうも違うようだ。

展示を「する」ことが好きな人は
いつだって何か展示したいのだ。

数年前になるけれど
「展示したいわあ。一緒に何か展示しようよ!」
と言われたことがあって、
その時漠然とした不安が自分を襲ったのを
今でもはっきり覚えている。

その不安について考えた。
その時、とっさに思ったことは
「え、展示しないとか」、だった。
あの人は「したい」なのに
私ときたら「しないと」なのだ。

だって「何か」って何?
この人と2人で表現したいものって何?
何かあったっけ?となったのだ。
目的が見えない霧の中
ただ展示することだけが走っていく。
そういう不安だったと思う。

展示は楽しいと私も思う。
作り上げていく楽しさ、気づき
その他多くのものを得られる。
でもそれは表現したいものが先にあって
その延長に展示があるイメージ。

だから展示をすることが
先に決まってることが不安になる。
そこに向けて表現したいことを
捻り出すっていう行為は
なんだかすごく作為的で
どこか嘘っぽくなりそうで怖いのだ。

結局その話は実現することはなかった。
私は内心ホッとしていた。

この個展が終わった先に
私がまた何かを表現したいと思うのか
全く分からない。
このまま何も出てこなければ
きっとこれが最後になるだろう。
いつもそんな気持ちでやっている。
だから私はベストを尽くしたい。

「人は不完全だからこそ
探究して成長していける。
それが人間のあるべき姿なのではないか」
そう思う人がこの世界にはいるらしい。

完璧を目指すわけでなく、
ずっと不完全なまま伸び続けたい人。

確かにそれも美しいかもしれない。
だけど私はいつだって最終的には
完璧を目指していたいと思う。
そのための探究と成長をしていたい。
それでも完璧になれずに
苦悩することが多いとしても。
私には「完璧」というゴールが必要だ。
完璧になって完結したい。

こういう考えが自分を苦しめていることは
薄々気付いてはいるのだけど
心がそれを欲してやまないのだ。
その完璧に向かうための手順の一つに
後付けで表現したいことを探すのは
ナンセンスだと心が叫ぶ。
私はその心の叫びに抗えない。
きっと、それだけのことなのだ。

「ゼロか100しかない」
「人にも自分にも厳しい」
「完璧主義」

何人もの人にそう言われてきた。
きっと私は危うい堅物に映るのだろう。
そう思われても確かに仕方がないのだ。
自己肯定感の弱さを
そうやって埋めているのかもしれない。

展示を「する」ことが好きな人は
もっと自由で、柔軟なのかもしれない。
楽しいことを楽しむことができて
きっと楽しいことが不安になったり
傷つかない為の疑心など持ったとしても
自力で振り払える力があるのかも。

私は欠陥していることが多すぎて
「完璧」にすがることしかできない。
そうでもいないと
自分で自分を支えるのがとても困難だ。
自分を心から信じていないし
自分を愛してあげることが苦しい。
完璧な自分しか許せない。
しかも完璧になったところで
愛せるのではなく許せるというだけ。
これを欠陥と言わず何と言うのか。

「昔よりはマシ」
それが最近の魔法の呪文。
それでもやっぱり表現には今も完璧が欲しい。
そのために私の撮る力はあるのでしょう?
完璧でないならこんな力はゴミと一緒だ。

自分の写真を愛でないのは
きっとそれが完璧でないからだ。
完成させてやっと許したものもある。

私の孤独の原因が
完璧を求めているものから来ているのなら
完璧な孤独を作るまでだ。
希望はそこにしかない。


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