生きるということ、私のこと

この地球に生きる全ての人、全ての動物それぞれに各々の生がある。


アインシュタインもパブロ・ピカソも、ジャンヌ・ダルクだって、彼らの人生とその偉大さは伝記として後世の人々へと長い間伝え続けられている。

私の祖母が亡くなっても、祖母の人生が伝記になったり歴史年表に生前の行動が記されたりすることはなかった。祖母がいなくなった世界では、祖母が生きていた頃と変わらずさも何事もなかったかのように今日まで時が流れ続けている。

だからといって私や妹、両親、おじ、祖父の心から祖母は跡形もなく消えていってしまったか?

いや、そんなことはない。
私にとってはこれまでも、これからも、死ぬまでずっと祖母は祖母という存在で在り続ける。いつだって優しい人だった。

生きるということは愛する人の記憶に残るということだ。


私がまだ小さい頃に、若くして亡くなってしまった親戚のお兄さん。私は彼のことを覚えていないし、写真で顔を見ても全くピンとこないけれど、それでも小さい頃によく遊んでくれたお兄さんだと今もずっと認識しているしそれを忘れたことはない。いわばこれも記憶の一つである。たとえば私の記憶にその行動や身なりが残らなくても、あなたが私を可愛がってくれたことは私の母の記憶には鮮明に刻まれている。そしてその記憶を共有することで私の中にもお兄さんの存在が芽生える。

きっと愛が強ければ強いほど、愛した期間が長ければ長いほど記憶にはその存在が、生きたことが色濃く残る。他人の生に優劣をつけるなんてことではないけれど、これはきっと。

逆に、私が私なりに死というものを実感したのはきっと14歳の時。もうあと二週間で15歳になるという頃に、高校受験を控えた12月に愛犬が亡くなった。それが私が今まで生きてきた20年間で最も死を感じ死を恐れた瞬間だった。愛犬のからだも、塾帰りの私の手も冷たかった。それから今日まで愛犬のことを忘れた瞬間なんて一秒たりともなかったし、新しく別の愛犬を家族に迎えたがどちらも私にとっては大切な家族であり命であり愛する存在である。命あるものは生きるにせよ、いずれ必ず死と直面する、これは避けられないことなんだと知った。


「愛する人の記憶に残るということ。」

愛する人々は私にもいるけれど、きっとこれだけが生きるということの全てではない。これはあくまでも今の私が導き出した、生きるとは何か?という問いへのこたえなだけであって、別解は沢山存在するだろう。そりゃそうだ。たとえば自分の好きなことに熱中するのも生きること、恋愛をして大切な人に出会うのも生きること。


私に「生きるとは何か?」という問いかけをし、それに対するこたえをたくさん教えてくれるのはいつだってMrs.GREEN APPLEである。かれらの楽曲は、本当に、考えさせられると言ったら安い言葉に聞こえるけれど、まさしく深く心に刻まれズシリと重い何かを置いていく。

『僕のこと』

生きるとは何か、何を意味しているのか、私はこの曲を聞いて私が"私"という存在であり続けることだと感じた。これも感じ方は人それぞれだけれど。

生きるということが何かを考える時、結論を出した後は決まって思うことがある。

「生きてて良かった」「生きなきゃ」

「生まれてこられて良かった」 




「生きたい」


誰もが言う。
生きるのは大変なことだ、と。

それでも生きたい、生き続けたい。

この先に何があるのかなんてそんなこと誰にも分からない。今までの人生で後悔はないか?あるに決まってる。奇跡なんて起こらないし、努力も、孤独だって報われないことばかりだよ。

だけど、今日まで生きてきたし。
私はこれからも生きていきたい。

生きていたら嫌でも優劣が目につくことだってある。憧れる。他人に、他人には決してなれないのに憧れてしまう。妬んでしまう。

だけど私は私だし。
自分のこと、そんなに嫌いじゃないし。


今日は成人式だ。

私が今生きているのもきっとこれから生きていくことができるのも、何もかもが周りで私を支えてくれる人たちのお陰である。その支えの柱の太さは人それぞれだけれど、支えがなければその上にあるものは簡単に崩れてしまう。

私を産んでくれた母、育ててくれた父、私にとってきっと今一番太い柱である二人のお陰で二十歳を迎えられた。

感謝は忘れちゃいけないけれど、恥ずかしいな
わざわざ言葉にするなんて柄じゃない。
言葉にしなきゃ伝わらないけれど、親子だから言葉にしなくてもちゃんと伝わっていることもある。

愛してるだなんて言わないけどさ、でもね。

二十歳になったよ。

私は生きてこられて良かったし、これからも生きていきたい。


ああ、なんて素敵な日なのだろう。

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