感情は全て引用か。
川上未映子さんの小説、『すべて真夜中の恋人たち』を読んだ。
この本の中にある言葉。
「うれしいとか悲しいとか、不安とか、…テレビみて面白いなあとか、エビ食べておいしいなあとか、なんでも。…そんなのっていつか…読んだり触れたりした文章の引用じゃないのかって思えるの。何かにたいして感情が動いたような気がしても、それってほんとうに自分が思っていることなのかどうかが、自分でもよくわからないのよ。いつか誰かが書き記した、それが文章じゃなくてもね、映画の台詞でも表情でもなんでもいいんだけど、とにかく他人のものを引用しているような気持ちになるの」
「悲しいもうれしいも、自分のものじゃなくてどこかのだれかがいつか感じただけのもので、わたしたちはそれをなぞってるだけにすぎないのよ。」
私ははっとした。
今までそんなことを考えたこともなかった。
わたしの心の中に生まれる感情は全て自分のものだと思っていたし、それが誰かの気持ちをなぞっているだけのものだなんて、考えたこともなかった。
わたしが生きてきた証のようなものーーー今まで感じてきた怒りも哀しみも嬉しい感情もーーーすべてがどこからかの引用かもしれない。わたしたちが気づいていないだけで。
でも、そう考えるとわたしたちは孤独ではないのかもしれない、とも思う。わたしたちが悲しいと思ったとき、その感情はいつかの誰かが感じたものであり、わたしたちが嬉しいと思ったとき、その感情はまたいつかの誰かが感じたものだから。そう考えれば、わたしたちの孤独は少しやわらかくなる気がする。
だけど、ある種、別の寂しさが襲ってくる。それは、わたしがわたしであることを、感情に求めることができないことだ。わたしが生きている中で感じるものが、その誰かのものだとしたら、わたしがわたしである必要が無くなってしまう、そういう虚無感のようなものがわたしたちを襲ってくる。誰かの感じてきたものをそのままなぞっているだけだとしたら、それは、ものすごく寂しいものではないだろうか。
わたしがわたしであること。
それを感じる場所は人生の中であるのだろうか。
そう考えたとき、
わたしは「愛すること」だけが唯一のわたしではないかと思った。
愛すること。
家族や友達、恋人を愛すること。
嬉しいとか、悲しいとか、そういう感情は全て愛から生まれるのではないか。
家族愛、友情愛、恋愛、という言葉で普遍化されてしまう嬉しい気持ちや悲しい気持ちは、誰かのものをなぞっているだけかもしれないけれど、
その根本にある「愛する気持ち」は、わたしがわたしである必要があり、その人がその人である必要があるのではないだろうか。
だから、わたしたちは誰かを愛したり、誰かに愛されたりすることで、「わたし」という存在を認められたような気がして、幸せを感じるのかもしれない。
わたしがわたしであることを見失ってしまったとき、誰かを愛することを思い出そうと思う。
多分、本当の意味で寂しい気持ちが和らぐと思うから。