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"にんげん"の紡ぐ歴史の果てに【宝石の国 紹介】

今年の四月に最終話となる第百八話が公開され、休載期間を挟んで12年の連載に幕を下ろした市川春子による漫画、『宝石の国』の単行本最終巻13巻が、先日11月21日に発売されました。今回はストーリーや注目すべきポイントについて、ネタバレにならない程度にざっくりと紹介したいと思います。


あらすじ(だいたいアニメ1話分)

"にんげん"の生きた時代が古代と呼ばれるほど遠い過去となった未来で、宝石でできた身体を持つ人型の生命体たちと、それらを束ねる「金剛先生」という人物が暮らしていた。彼ら宝石生命体たちは等しく宝石由来の美しい髪色と中性的な体つきをしており、衝撃を受けて体が粉々に割れたとしても、欠片を集めて繋ぎ合わせることで元通りになる、という性質を持っていた。彼らには食事や排泄、"死"の概念もなく、無限とも言える長い生活を日々過ごしていた。

ただひとつ、彼らの生活は常に、宝石たちを装飾品として持ち去ろうとする「月人」たちの攻撃にさらされており、それに立ち向かうため金剛先生の管理のもと各自与えられた役割をこなしていた。そんな中、宝石たちの中でも硬度が3半と低く、ひときわ脆いフォスフォフィライトだけは、その特性から戦闘には向かず、金剛先生も役割を与えかねるような、宝石たちの中でも浮いた存在だった。自分だけの役割がないことが不服ながら、根拠のない自信や持ち前のお転婆さを発揮していたフォスだったが、やっと「博物誌の編纂」という仕事を与えられる。

想像よりもはるかに地味な仕事で初めは不満たらたらだったフォスだったが、夕暮れ時の仕事中に月人の襲撃を受けてしまう。偶然居合わせたシンシャが月人の攻撃を防いでくれたが、彼は体から毒液を分泌するという性質上、みんなから離れて夜の見回りを任されている存在であり、結果としてフォスはシンシャの孤独に触れてしまうことに。今の仕事よりずっと楽しく、シンシャにしかできない仕事を見つけてみせる、と本人の前で宣言したフォスだったが、はたして……


2017年放映のTVアニメ版(今年12月31日まで無料公開)


宝石たち

身体はそれぞれ固有の宝石でできており、ダイヤモンド・アメシスト・ラピスラズリなど、さまざまな種類の宝石が個々の意志を持って活動している。宝石の種類に応じて硬さもバリエーションがあり、特に硬い宝石はその壊れにくさを活かして戦闘に赴いている。普段は金剛先生と一緒に「学校」と呼ばれる建物内で暮らしており、「学校」内には個人が寝泊まりする部屋だけでなく、図書館や冬眠用の寝床など様々な設備があることが確認されている。
宝石たちは、体内に「インクルージョン」と呼ばれる微少生物を宿しており、そのおかげで彼らの有機生物的な活動が可能になっている、と説明される。インクルージョンを宿す宝石は全て、学校の南西にある『緒の浜』で産出されるが、その中でも十分にインクルージョンを宿しているものだけが、彼らのように人型となって活動できるようになる。彼らの「くっつければ治る」耐久性はこのインクルージョンの働きによるものであり、この微少生物が行き来をすることができる範囲が彼らにとっての「身体」である。中でもフォスフォフィライトのインクルージョンは一際順応性が高く、元とは別の素材であってもくっついて「身体」にしてしまう特異性をもつ。(この性質が物語を通して一悶着を起こすことに……)


金剛先生

先述の通り、登場する宝石たちはみな中性的な特徴を備えており、さらには衣装も(まるで「喪服」のような)黒いスーツを模したデザインで非常に印象的だが、金剛先生だけは剃髪に袈裟といった仏教の僧侶の装いをしている。さらには、宝石たちとは一線を画した硬さ、ほとんど戦闘なしに月人を霧消させる能力、長期間の瞑想(宝石が言うところの"お昼寝")中には全く意識がない、など、宝石たちにはない特徴を多く備えている。

市川春子『宝石の国(2)』、講談社 p.5より

『緒の浜』から産出する宝石たちの原型を人型に成形して、教育・指導を行う存在でありながら、会話の端々にユーモアを挟むなどお茶目な部分も備えており、宝石たちから慕われている。しかし、フォスの口から"にんげん"の単語が出るだけで取り乱したり、月人の連れてきた謎の生き物「しろ」(この名前も先生がすでに知っていた)が異様に懐いていたりなど、謎の多い人物でもある。


月人(つきじん)

宝石たちを装飾品にするべく月からやってくる存在。襲撃時には菩薩や如来といった格好で、雲のような乗り物のうえに所狭しと並ぶ姿は仏教における『来迎図』を連想させる。

市川春子『宝石の国(1)』、講談社 p.11より
阿弥陀聖衆来迎図、東京国立博物館所蔵

同じく仏教のモチーフを身に纏う金剛先生とは対照的に、各月人たちとコミュニケーションを取ることは全くできず、戦闘時において宝石たちは一方的な防戦を強いられる。そのため、持ち去った宝石たちをどうしているのか、どのような科学技術を持ち合わせているのか、普段はどのように暮らしているのかなど、不明なことが多い。



個人的な感想(書き散らし)

SNS上では「地獄の鬱漫画」「読むと体調を崩す」などと散々な言われ様の『宝石の国』だが、私は全く違う印象を受けた。そりゃあまあフォスは逐一散々な目に合うし、他の宝石たちはそれぞれの好き勝手に動くし、先生はだいぶ危うい立ち位置だったことが解るしで、夢と希望の冒険譚でないことは明らかなのだが、それでも「鬱漫画」認定するのは「なんか違う」のだ。
"にんげん"という生き物の、残滓としての宝石たち、その末っ子としてのフォスフォフィライトが、どのように自身を変質させ、どのように歴史を閉じたのか、その物語が『宝石の国』なのである。歴史に「道徳」はないように、ただひたすらに事実と必然を積み重ねた上で、この物語は進んでいく。そこには、いち"にんげん"である私たちの情を挟む余地はない、と私は感じた。むしろ、身体が変化し能力を得ていく中で、世の中の見え方が変わり、疑ったことのないものを疑ったり、焦がれていたことは実は大したことではないと気づいたり、フォスは其処彼処の場面で変化していく。そのように絶えず変化していくことこそ、世のことわりであり、道理にかなっていると感じる。
この物語の中で、フォスに課せられる苦難は多い。しかし、それをひとつづつ追体験し、紐解いた先であるからこそ、最終話の薄荷色の流星は一際輝くのではないだろうか?



最後に一番好きなセリフで終わりにしましょう。

どうもこうもねえよ 予定なんてクソ 気分は神 楽しむのみ

市川春子『宝石の国(13)』、講談社 p.73より

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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