期待と心配と卑下とヒゲ

家族と自分のために、とある決断をした。

その決断を、家族は大いに喜んでくれた。
サプライズでお祝いをしてくれる程、祝福してくれた。

僕は嬉しかった。

悩みに悩み、何度も相談を重ねた上に決めたことを、大切な人たちが喜んでくれたことが、とにかく嬉しかった。柄にもなく、期待に満ち溢れていた。

が、冷静になった今、それ以上の心配が襲ってきた。

「俺みたいな人間が、本当に大丈夫か?」

これまでの人生、期待を裏切ってきたことは数え切れない程ある。自分自身の能力を過信して失敗したこともあれば、不安に押しつぶされて挫けたこともある。


そんな僕が下した決断は、本当に正しいのか?またまた失敗してしまうのではないか?


そう考えた時、口馴染みのある言葉が思い浮かんだ。

「どうせ僕なんか……」

これまでの人生、期待に応えてきたことも数える程ある。その全てと言っても過言ではない程、まずは上記のような自己卑下発言をおこなっている。

記憶にあるのは中学三年生の体育祭。

足が速かった僕は最終種目である全体リレーのアンカーに選ばれた。
緊張しながら準備を進めていると、一走前の後輩から「僕は多分抜かされるので、抜き返してください!本当にお願いします!」と懇願された。

僕はその時、眉を八の字にしながら、「いやいや、俺も無理だよ」とヘラヘラしながら答えた。

結果的に後輩は本当に抜かされ、二位でバトンを受け取った僕は、必死の思いで走り抜き、一位でゴールテープを切ることができた。

ただ僕は、いまだに後悔している。

「何故、後輩から声を掛けられた時、「俺に任せろ」と言えなかったのか」


有言実行。

この言葉の重みを、今になって感じている。

これまで「どうせ僕なんか……」と卑下することによって、自分を守り、「失敗してもしょうがないよね」といった雰囲気作りを続けていた。そうすれば、期待を裏切っても失望されないと勘違いしていたのだ。


もう僕は、自分を卑下する立場ではない。

妻も娘もいる。

自分を卑下して自分を守るのではなく、自分の判断や決断を信じ、遮二無二働く他ないのだ。

万が一、大切な人の期待を裏切ったとしても、それで何かを失うような関係性ではない。
愚直に努める姿を、必ず見てくれている。
僕を信じている人の前で「どうせ僕なんか……」と言う方が、よっぽど失望させるに違いない。


B'zの松本さんはザ・クロニカルの中でこう言っていた。
「自己卑下は絶対いけないですね。やる意味がないですよ」
B'zの稲葉さんはユートピアでこう歌っていた。
「心配なんてそこら中にあるもの」


期待と心配と共存して、家族のために生きていく。
そこに卑下は必要ない。

「俺は大丈夫」

そう強く言い聞かせて、五年振りにヒゲを剃る。

久しぶりのカミソリ負けを見て、思う。




「ヒゲがない自分、変な顔!」

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