見出し画像

例えば私の心が湖だったとして

〈3622字〉

エッセイ集です!!!(めっちゃかっこいい名称)
よろしくおねがいします!!!


例えば私の心が湖だったとして

例えば私の心が湖だったとして、かさが大きくて質量がそんなでもないものたちが水面近くでガチャガチャ浮いていると邪魔なので、ひとつひとつ全部掃いて捨てるけど、ほんとに質量のあるやつは大したかさがなくても沈んでいくので却って取り出せず、自分でも認められなくなったりします。


減速と降下

大人になるって、自分に対する勘違いが減っていくことなんでしょうか 。勘違いしていた過去の方が幸せだったと思うんですよね、ってことは昔も言っていたはずで、つまり結局過去を除けば今がいちばん幸せじゃないですか?みたいな話になってくるけど、今を頂点とみなすにはあまりに味気なさすぎる気がします。

小さい絶望をこう、1つ2つと探して見つけて並べて観察しています。


不自由研究

私って自分のこと自由人だと思ってたんですよ。けど最近どうも、自分は思ったよりも自分の考えを外部に発信しない選択をすることが多いなってことに気付いてしまって。けど私を自由人だと評価する人間は私以外にも大勢いて。だから矛盾が起きるんですよ。

「お前はそんなにも自由奔放に過ごしているのに、まだ不自由を嘆いているのか!」とか言われたら、まあ返す言葉もございませんって感じではあるのだけれど。けどアウトプットしきれていないって感じる私の質量大きめの心があるってことは別に嘘じゃなくて。ここは主観でしか判断できない部分。

だから結局、私は自由な人間なのかそうでもない人間なのか、自他ともにそのへんがどうなっているのか、よくわかんないねって話です。

まあこれは他人どうこうというよりももっと内省的な話で、私は自由な人間のほうが魅力的だと感じていて、自分に感じている(小さな)魅力のひとつにそういう側面があったりしたわけですが、その魅力さえも嘘だったのかもしれないと気づいてしまってから、私の価値って何だろうと、見失いそうになっています。

けっこうずっと、「思っていることを言えるわけでもないけど、思ってないことを言えない人間」を自称してきてはいたものの、このカギカッコの前半部分を真剣に考えたことがなかったのかもしれないと気づいて、あーなんか、認めたくなかったんだろうなと、自分のことながら思います。

正直な人間だと、思っていたのにな。

自分自身に裏切られたような虚しさが、ずっとちょっと私の心にある。

認めてしまってからというもの、どんどん「自分が自由、ないし素直とは言えない根拠」を思い浮かべてしまって。 こういうところで「思考過程論理的人間」の私が顔を出してきて。結局自分を傷つけて苦しめてるのはいつも自分自身です。


ロジカル・エモーション

私ってこれまでの人生で数回「お前って論理的でむかつくね」みたいなニュアンスの遠回し悪口を言われたことがあって。だって私ってけっこう感情的にものを言うじゃないですか。 なのにどうしてそんなことを言われたのかを考えていたけど、私って実は思考過程自体はけっこう論理的で、だからそのまま正しい結論を出すかと思いきや、論理的に考えて集めた情報をもとに、最終的な判断の部分だけはめちゃくちゃ感情で下すからなんだろうなっていうことを、21歳になってから気づきました。

私にとって論理は「この感情(ウルトラ神聖☆)が是であることを担保をしてくれる材料」でしかないんだろうな。


それっぽエゴコレクション

本音を言えない、思ってること言えない、みたいな悩み(この言い方も好まない)って、まじでめちゃくちゃ俗っぽくて嫌なんだよな。「そんな悩み方私じゃなくてもできるし!」みたいな。

私は私自身に「唯一的な存在でいること」「それでアイデンティティを確立させること」をハードルとして無意識に課しているので、みんなが抱えそうな悩みを抱えることを嫌忌しています。

「ガワだけをまとう人間になりたくないな」って考えがずっとあって。それでも何となくガワをまといたくなる瞬間があって。でもそのガワって私らしくもないし根拠もなくて。だから一回もガワのことを具体的な文字にしてないんですけど。そのせいでずっと心にいて。それがすごく邪魔です。

そしてまた、「あれ、私って、何が好きかも素直に選べない人間だったんだな」って思っちゃって。自分が好きになるものは必ず自分っぽくなければならない、というような制約を設けて、結局ずっと「それっぽエゴコレクション」をしながら生きてるなと、虚しくなります。

だからそう、例えば俗っぽいものに惹かれてしまったとき、私は俗っぽいものに宿った魅力と同時にそういう自分に対する嫌忌を感じてしまって、うまく愛せないんですよね。

いや、 「俗っぽいから好きなんじゃないか?」みたいな思いに駆られているとも考えられるかもしれません。みんなが好きって言ってるから好きなだけなんじゃないか?っていう。けどそういう自分は見たくないし嫌いなので、俗っぽいそれごと距離を置きたくなります。魅力的な気がするのにね。

けどその「魅力」っていうものが、どうも作り物に感じられるとも思っていて。 っていうのは私最近ちょくちょく「ブランディング」って言葉を使うようになったんですけど、このブランディングは「する側」にとっての価値で、そのブランディングに影響されることってすごく、めちゃくちゃ、ダサい気がしてしまって。

今私が感じて否定したくなっている「好き」は、誰かによって操作されている半自動的で強制的な感情なんじゃないかって疑ってしまってから、素直に受け取る気にもならなくて、その「好き」に宿る根拠が説明できないと自分でも分かってるから静かに羞恥を感じていて、それで認めたくないって話です。

けどまた反対に、「俗っぽくないから好き」っていうのもなかなか気持ち悪いとも思ってて。まあつまり今の私はおそらく「中二病から足を洗おうとしている最中のクソガキ」なので、どちらに進んでも馬鹿馬鹿しいような気がしてしまって、にっちもさっちもいかなくなっているわけです。


好いて、透いて、空いて

人を、根拠なく愛してしまっているような気がする瞬間があって、それがすごく不安です。

根拠があるから――それがたとえ狂気的でも――理性のもとに発生した感情だって思えているのに、根拠がないと、自分がこれからどこに向かうのかも、どんな風に不幸になる可能性があるのかも、なにも分からないので怖いです。

私が人を好きになる時は常に何か理由があるはずなんですよ。「言語化できない感情は気のせい」という私のポリシーにもそれは表れているのではないかと思います。

そのポリシーに従いたいなら「考えないこと」が善なわけです、なんせ気のせいですから。しかし、その手段は知りません。

「根拠がない感情は気のせいである」という私のポリシーに従いたいなら考えないことが善なわけだけど、その手段は知らない。

吐き出せば解決する(かもしれない)ということは心の随分浅いところで分かってはいて、目先の問題は解決するであろうことは分かるけど、その先に待っている未来が予想できなくて。それ以上の問題が発生したり、この問題(広義)と長期間戦わなければならなかったりする可能性があるということも理解していて。

まあだから要は、現状の問題から抜け出すための手段が、未来の自分にとっても正しい手段なのかどうかの判断がつかなくて怖気づいているという話。

結局なんにもうまくいかないということを分かりながら(正確には「自分に強く納得させながら」)、諦め混じりの行動を起こすしかないのかな。「しかない」ということはないって分かってるけど、長期的に見るとそれがいいような気もしていて、けどそれは今の私が納得しきれなくてさすがに動けない。整理するには自分で認めたくないことが多すぎて話が進まない。

解決させるための行動を起こすには思考量が足りていないし、思考量を増やすには認める覚悟が足りていなさすぎる。


いっそ、人を好きになりたくないな。
だって誰かが悲しむから。
不幸になりたい人なんていないでしょ。

私は結局素直に思ってることを言いたいだけです、きっとね。
世間体とか、自分のポジションとか、そんなのどうでもいいって言いながら、建前とか関係なく、流行りを追ったり追わなかったり、何かを好きになりたいだけです、きっとね。

誰かが私を好きになってくれたらいいのにとか思うけど、そいつのことを私が好きになれないような気がしてしまって、自信がない。人を好きになりたくもないし嫌いになりたくもないの。ふわっと泣きそうだよ。

自分を好いてくれる人を嫌ってしまうほど、寂しくて贅沢で残酷なことなんてないでしょう?

人間と両思いになりたいっていうのは限りなく贅沢な思想に思えて。
尊大だな。からっぽのくせに。

好きなものを好きって言えるくらい素直になりたいってだけです。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?