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手技より前に行うこと

最近、周りにいる人が、みんな同じことを言ってくる。手を変え、品を変え、とても大事なことを伝えようとしてくる。
言葉のオーバーラップが起こっている。

手技より前に出来なくちゃいけないことがあった。それは誘導するためのストーリーを持ち、言葉にすることでした。

最近起きたこと

私は現在、鍼灸師に成るべく学校に通っているのと別に、転職を2回したというバックグラウンドがあります。

結果として、過去の職場、現在の学舎(校外含め)、其々の場所に、勝手に影響を受けまくっている人が、複数人います。

そして、結果的にそれらの人との繋がりは今も途切れておらず、頻度は違えどお会いしていて、最近たまたま、それが重なりました。

そして、使う言葉は違えど、同じ事を伝えようとしていたんだなと思う機会が重なる事となりました。
(周りにいる先達が、みんな同じことを言ってくる)

それまでのモヤモヤ

基本的に物事をグレーゾーンにしていることが好きなのと、内省が好きな人間なもので、足踏みしていることが多いです。

今回のモヤつきポイントとしては以下。
『なんで手技練習をした時に自信が持てないんだろう?』
先生の所で習った手技を、友人に練習台頼んだりしているのです。

開業権があるというメリットを持つ鍼灸師になりたい者としては、なんとも勿体無い考えをしているなあというもの。
インプットばかりしていて、アウトプットが上手くいかないな、という危機感がありました。

自分がなりたい鍼灸師の姿は、
①良いと実感したことを行うもの
②なぜ良くなるのかを理解、言葉にでき、行えるもの
③実感のきっかけになる人物たること

自信が持てないというところは、上記の全てで足りない部分があるものの、特に③、どうやったらそんなことが起こせるのか、足がかりがなく。

この③について、足がかりができたような気がするので、それらを書き綴るのが今回の文章の目的です。

気付きの纏め

③について補足します。

以前の私の『治療』に対するイメージは、医師に診断をもらう、とか、骨盤矯正をしてもらう、とか、鍼灸をしてもらう、とか、自分が横たわっているだけでも、体調が良くなることが、良い治療なのだと思っていました。これは一般的にもそうだと思います。(ただし心身ともに疲弊している場合はそれも必要)

ただ、その考えは、尊敬する方々とお話しすることで、今は大きく変わっています。それは中継点であって、目指すのは、そこではない。

あくまで、自分で、自分の体調を整えたり、機嫌を取れるのが目指すところなのだなあと感じたのです。
施術者、つまり未来の自分は、併走するに過ぎないということ。
面白いなり、心地良いなり、心の変化(気付き)はご本人にしかできず、他人ではなく、自分が行うべきもの。まずそこに気付くこと。

そして、これってとても難しくないか。
と、モヤモヤしていたのです。
でもなんのこと、既に先生方はその方法を言葉で私に伝えておいでで、それを私が受け取れておらずにいただけだったーという。
先生が言われていた、ナラティブという考え方を聞いて、思い当たる。

これからしていきたい、一つのアイディア。
併走するには、そのストーリーを作って誘導していくしかない。

例えば、私が「◯◯と思ったら、言ってね。」と人に伝えたとする。
そして私が選択、言葉にした◯◯に、人はフォーカスするという。

例えば、「鍼が痛いと思ったら、言ってね。」と伝えたら、人は「痛い」という物事に対して感情がフォーカスされる。
痛さの例えを伝えて、前置きを作ればいいだけである以上に、痛さへの気付きが残ってしまう。

例えば、「暖かいと思ったら、言ってね。」と伝えたら、人は「暖かくなる」という物事に対して感情がフォーカスされる。

どこにフォーカスを当てるか、施術者は選択し伝えることができる。

自分の性格の癖を考えると、実感を大切にしすぎる節があります。
痛いも、暖かいも、自分の経験になるから、結果、いい事になるって思っている節があります。

でも、気付きの誘発を行いたいと思う自分がいるのならば、ネガティブとポジティブの使い分けの意義を知って、自分で作っていかないといけないものなのだなあと。

そして、「私はこう思ったの。」とストーリー仕立てで紡いでいくこと。
もちろん、全体像の見通しをつける学習も必要だけれど。

ただ行うことが目的になっていた自分

ナラティブという言葉を聞くまでに、言われた言葉として。

にんじんを持って、そちらに向かせればいい。
もしその人がいきたい駅があったら、その方向を指差すなり、手を繋いで駅まで連れて行ってあげたらいい。
梅干しを考えないでって言われても、途端に口が酸っぱくなってくる。

そんな例を伝えられていたのだけど。
どちらかというと、正しいことを簡潔に伝えていく、という意味あいで受け取っていたのだよなあ。そんなすごい事だと思わなかったのだよなあ。(頭が硬い)

よく先生が、『治療を行うことが目的になってしまっている。』と言われていたけれど、自分もそうなってた。

気付きってやり方によっては、誘導できるものなんだ。と、自分の中でちゃぶ台がひっくり返ったような思いでした。

野口晴哉先生の本で、気についての記述について、以下のような文章があります。

「気は心」と言いますが、心そのものではありません。ただ気の動くように心が動くだけです。心だけではありません。

気は物質以前の存在です。
気の動きは勢いなのです。勢いは人のいのちです。
『整体入門』 野口晴哉

気付きは、勢いにつながることなのかなと。

鍼灸は『自分の内側、体質や気質への気付き』、運動療法は『体性感覚や自分事として捉えることへの気付き』、どちらも他人ではなく、自分しか出来ないこと。
私たちは併走するに過ぎないこと。併走の仕方があるということ。

そのためにできる一歩

其々の先生方は、世間一般に言われている事ではなく、ご自分が実感したことを言葉にされていると感じています。
だからこそ、受け取れるものなのだと思います。(受け取れてなかったんだけど…笑)

何せ、日々、実感を得るための種まきをしていきたい所存です。
種を蒔いて、ちょっと寝かせて、ふと、思えるように。

あとは、ちょっと言葉をネガティブに言いがちなので、もっと簡単な、明るい言葉を選択して過ごしていきたいな、と思います。
言葉を癖にする。そんな考え方が必要だなと感じました。