(76)正始八年、相攻撃の顛末

076正始八年の戦い

江戸火消しの纏

「倭人伝」は「正始八年」の節で「卑彌呼以死」を伝えています。正始八年は西暦247年に当たり、帯方郡では前年に戦死した弓遵天文学の知見では3月24日の日没間際に皆既日蝕が発生していました。

「以」は原因や理由を示す接続詞です。その前に「遣塞曹掾史張政等因齎詔書黃幢拜假難升米爲檄告喩之」(塞曹掾史張政等を遣はし、因って詔書黃幢を齎らし、難升米に拝仮せしめ檄を為して之を告喩す)という説明が置かれています。「告喩」したので卑彌呼女王が死んだ、という建付けです。

卑彌呼女王が倭載斯烏越(2人の名前が合体しているのかもしれません)を帯方郡に送ったのは、不和だった狗奴國の卑彌弓呼王との間に戦いが発生した。それで援軍を求めたのか、王頎への慶賀入貢だったのか、定かではありません。

通常の祝賀使節であれば、女王の使者が帯方郡に到着したのは対馬海峡の波が穏やかな夏だったでしょう。景初二年(238)の使節団を例に取ると、帯方太守劉夏は女王の使節を京師(洛陽)に送り届け、十二月に詔書が発布されました。その詔書と女王への下給品を携えた建中校尉梯儁を長とする返礼使節が倭地に入ったのは翌年の夏でした。使節の往復に丸1年を要しています。

正始八年も詔書が発布されています。この証書は、「其六年詔賜倭難升米黃幢付郡假授」とあるように、その2年前の正始六年(245)、難升米宛てに発布されたものでした。黄幢も一緒に帯方郡に届いていたということは、邪馬壹国と狗奴國の緊張状態は正始八年に突発したのではありません。本来なら翌年、倭地に届けられるべきでしたが、帯方郡は韓族、濊族との戦いに追われていました。それは太守の弓遵が戦死するほど激しいものでした。

魏帝国ないし帯方郡は、その一方で邪馬壹國が狗奴國との戦いに敗れたら、北東アジア世界における魏帝国の優位が揺らぐかもしれないという危機感を抱いていたのです。そうでなければ海の向こうにいる異族の内輪揉めに介入する理由が見つかりません。

魏帝国はそこで、卑彌呼女王に黄幢を与えました。幢は江戸時代の火消しの纏をもっときらびやかにしたものを想像してください。色は五行思想で漢=赤の次にくる色なので、まさに魏帝国を意味します。黄幢は、魏帝国が後ろ盾になっていることを示しました。ですが張政が難升米に「爲檄告喩之」したら卑彌呼女王が死んだのです。詔書と黄幢を与えたのに、当の女王を死に追いやったのはなぜでしょうか。

さて、ここから先は空想です。 証書と黄幢を「拝仮」したのが難升米だったことに意味が出てきます。詔書は形式的なもので、事件の本質は黄幢と告喩にあったと思われます。打ち続く凶作、大地震と津波は女王の霊力が劣えたーーと倭人の多くが考えているなら、卑彌呼で抑えがきかないということで、難升米の張政と意見が一致したのかもしれません。

帯方郡の了解のもとで難升米らは軍事クーデターを起こし、黄幢の権威を背景に難升米は卑彌弓呼王と休戦協定を結んだ、というのが正始八年の顛末ではなかったか、と思います。そのような見立てがあってもいいでしょう。

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