(172)永元元年、沙門慧深によると

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漢代の石像にある「扶桑樹」(日本財団図書館)

 今回は本稿にあっては余談に属します。

 《倭人の肖像》に付随する周辺情報であって、倭人と倭国、倭王権の考察に直接結びつくものではありません。「文身國」は倭人の黥・文身の習俗と関連しますが、「扶桑國」となるとやや希薄です。

 ともあれ、「扶桑國」についてです。

 『梁書』は「扶桑を実在の地として記事を載せるのは初めてである」と自慢しています。その根拠は、「普通中有道人稱自彼而至其言元本尤悉故扞録焉」――梁の初代皇帝蕭衍(武帝)の普通年間(520~527)に扶桑國から華夏にやってきた道人(仏教や道教の修行者)の話を記録したのだ、と語っています。記事のネタ元を明かすのは、華夏の正史では例がありません。

 その道人が何という名で、どのような経緯で誰に話したのかは分かりませんが、「齊永元元年其國有沙門慧深來至荊州説云……」(斉の永元元年、其の国に慧深という沙門有りて荊州に来たり、説いて云うに……)――つまり慧深という僧侶がその道人に語ったことによると、というわけです。

 永元は斉(南斉)の第6代蕭宝巻の元号で、その元年は西暦499年に当たります。蕭宝巻にはのちに「昭粛帝」の諡が贈られましたが、雍州刺史蕭衍(のちの梁の武帝)が挙兵したとき宮中で衛兵に殺害されたため、「東昏侯」の名で呼ばれます。皇帝として認められなかったのでした。

 で、その慧深が云うことには、「扶桑在大漢國東二萬餘里」(扶桑は大漢國の東二万里に在り)となっています。『梁書』東夷伝には「大漢國在文身國東五千余里」(大漢國は文身國の東五千余里に在り)とあるので、倭國を起点とすると北東7千余里で文身國、東北東1万2千余里で大漢國、ほぼ東の北寄り3万2千里で扶桑國ということになります。

 機械的に倭里=70mで計算すると、大漢國は倭國から東北東840km、扶桑國はほぼ東の北寄り2240kmです。福岡市から840kmは金沢市の先、2240kmだと青森県の龍飛崎、大間崎を飛び越えて北海道に渡らないと収まりません。津軽海峡を無視すると、宗谷岬までが2238kmです。

 一方、奈良市を起点にすると文身國、大漢國はぎりぎり日本列島に収まりますが、扶桑國は樺太かアリューシャン諸島、あるいは伊豆諸島か小笠原諸島に求めるしかなくなります。ただし、華夏江南(紹興、舟山群島)を起点ととすれば、話は変わってきます。いずれにせよ『梁書』諸夷伝の道里情報を実際の地図に当てはめるのは無理があるようです。

 ただ扶桑國条に「名國王爲乙祁」(国王は名を乙祁と為す)とあって、国王「乙祁」の読み(音)が気になるところです。「乙」は漢音でイツ、呉音でオツ/オチ、「祁」は漢音がキ、呉音がギなので、そのままだとオキかオギでしょう。

 これを『書紀』所伝の第23代ヲケ王(顕宗)か第24代オケ王(仁賢)に当てる考え方があるようです。どういうことかというと、「乙」は「弟」に意通すること、『古事記』はヲケを「意祁」、オケを「袁祁」と表記していることに依っています。

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