もうハンコは必要なくなる? 霞が関「デジタル化改革」の現実味 さまざまな「しがらみ」を振り切れるか

【補足】2019年2月、現代ビジネスに掲載された記事です。

ハンコ・印紙・添付書類をなくす?

経済産業省が2018年6月に新設した「デジタルトランスフォーメーション(DX)オフィス」については、以前「現代ビジネス」で報じ、大きな反響があった。DXオフィスが目指す目標――それは、最終的に「行政手続きから、ハンコ(押印)と印紙、公的な添付書類を省略すること」だ。これら行政手続きを所管するのは内閣府か総務省。そこに経産省が手を出すのは、かつて例がない。

経産省が示している見通しは、概ね下記のようなものだ。

これから5G通信へ移行し、AIやビッグデータが普及すると、これまで個別に動いていたシステムが相互に連携するようになり、DX=デジタル改革が本格化する。民間企業には競争原理が働くので、放っておいてもそれなりにDX化は進むだろう。

ところが、行政手続きが旧来のままでは、民間企業の足を引っ張ることになってしまう。民間は秒単位のスピードで動いているのに、行政手続きに何日もかかっているようでは、国際競争で太刀打ちできなくなる……。

まずターゲットとなっているのは、いまでさえ不要論が高まっている「押印」についてだ。いわゆる「認印」は、押印した者の意思を確認するためにあるとされるが、印影を登録した実印でないものなら、法的な有効性はほとんどない。要するに、気持ちの問題というレベルである。

手数料支払い済みであることを証明する印紙は、いまやSuicaなどの電子マネーやクレジットでも決済できる。役所の側も、公的手続きの書類をマイナンバーをキーにして役所間で確認できる。

現在はまだ、公的手続きで役所を訪れた申請者自身が、書類を持って各窓口をぐるぐると巡るのが一般的である。しかし、その気になれば戸籍謄・抄本だの住民票だの、納税証明書だの不動産登記簿だの、紙の書類をいちいち持ち出さなくとも確認ができる時代だ。住民が公的書類の運搬役をさせられる現状は、「住民本位の行政サービス」とは言いがたい。

DXオフィスに籍をおく経産官僚と話すと、彼らの構想が上記にとどまらないことがわかる。「車検証や車の保守データは、ICチップに記録して車両に組み込めばいいのではないか」、「そもそも、なぜ運転免許証を常に携行しなければならないのか(弁護士や医師は資格証を常時携行しているか?)」、「個人認証で、なぜいまだに20世紀型のプラスチックカードを使うのか」……。

ビジョンは膨らむが、とはいえ、住民・国民が行う行政手続きやサービスの現場は市区町村役場に集中していて、経産省の所管はほとんどない。霞が関の強固な縦割りの中では、さすがに他省庁の所管に手を突っ込むこともできない。

そこで、経産省から相談を受けた内閣官房がひねり出したのが、「新規の法人登記手続きのデジタル化」という変化球だった。申請から登記完了まで、現在の最短7日を24時間に短縮するのが目標だ。

これなら、DXオフィスがかねて進めている法人認証共通基盤プロジェクトともリンクできる。2019年度中に、経産省と中小企業庁の内部で実証的に運用し、2020年度に本番サービスに入る計画という。

「法人登記」はオンラインで可能に

現行の法人登記手続きは、ほとんどのプロセスでハンコと添付書類の提出が求められる。そこで内閣官房・経産省案では、代表者印の代わりに「商業登記電子認証」を利用する。

ただし、会社を設立したいならば、事前にマイナンバーカードを取得する必要がある。マイナンバーカードで本人確認をしたうえでID/パスワードを取得したら、電子証明書の発行を申請するために、法務局に出向かなければならない。役所に出向くのは、その1度だけなので、「そこは我慢して」というわけだ。

そこから先の手続きは、すべて電子的に行われる。手順は下記だ。(1)署名用アプリをダウンストール (2)アプリを起動 (3)IDとパスワードを入力 (4)PDFに電子署名を付与 (5)当該機関に送信 (6)受信した機関は法務局に照会

これまでのように、申請者が複数の役所を回って公的証明書の「運搬者」になるのでなく、確認が必要な際には役所が所管機関に照会するかたちに転換する。

さらに、これまで対面で行われてきた公証人による定款認証を双方向TV会議システムに替え、定款認証と設立登記手続を並行して行う。そもそも21世紀の現代に、明治・大正の臭いが漂う「公証人」なる制度が必要なのかという議論はさておき、これにより申請から登記完了まで、現行の7日を24時間に短縮することを目指すという。

登記完了後の税務署や市区町村への届け出、労基署や年金事務所、ハローワークでの手続きも、法人共通認証基盤で行えるようにする。法人名や所在地、代表者名など同じ情報を何度も記入することなく(ワンスオンリー)、あちこちに移動せず1つのサイト(アットワンス)でできるようになるというわけだ(図)。

画像2

これから起業するネット世代にとって、ハンコと添付書類、面談や窓口での手続きといった「時代錯誤なプロセス」を省略できるのは大歓迎だろう。

実際、新たに会社を設立しようとするベンチャーは、手続きが24時間以内に完了するシンガポールや香港で登記を行っている。日本から起業家が逃げ始めているのだ。国や自治体にとっても、税収や雇用の拡大に直結する施策だ。また企業にとっても、税務、法務、雇用、年金、助成措置申請などの手続きがワンスオンリー/アットワンスでできるようになれば、大幅な事務の効率化が期待できる。

印章業界からの反発

関係筋によると、法人登記手続きをデジタル技術を使って簡素化することに抵抗感を示したのは、案の定というべきか、印章業界だったという。

そのため、内閣官房と経産省は昨年7月、印章業界の要請を受けて全国6か所(東京、北海道、名古屋、甲府、福岡、大阪)で説明会を実施。「実印制度を廃止するのでも、行政手続きで押印を不要にするのでもない」「個人認証の選択肢を増やすだけ」という説明を行い、おおむね理解が示された。

たしかに法人登記手続き以外の、銀行口座を開設したり、取引に伴う契約をかわしたりする際の手続きでは、実印・公印はなくならない。日本では長年、資格や証明の有無は押印の有無によって示されてきたし、行政における証明書でも、公印が押されていると「ありがたさが違う」「引き締まって見える」との感想も未だ根強い。

経産省は今回、「いきなりすべての行政手続からハンコをなくすのは無理」と認めつつ、自省が所管する制度の中で「ハンコなしでOK」の事例を作ることにより、率先垂範する意思を示したと考えられる。

ただ一方で、「個人認証はID/パスワード認証でいいのではないか」という機運も高まっている。以前の記事で筆者も触れたように、国税庁は今年3月の確定申告から「3年間の暫定措置」として、e-TaxにID/パスワード方式を採用することを決めた。

この国税庁の動きは、暫定措置といいながら、一向に普及しないマイナンバーカードに見切りをつけたとも捉えられる。うがった見方をするなら、国税庁がデジタル技術の活用に一歩踏み込んだことが、内閣官房・経産省の背中を押したと言えなくもない。

最大の障害は「霞が関の利害対立」

内閣官房が経産省に加勢したことで、実現する見通しとなった法人登記のデジタル改革だが、関係者によると「最大の難関は法務省だった」という。

制度改革そのものに特段の異論があったわけではない。法務省が所管する公証人の仕事が減る、もしくはなくなることが受け入れ難かったらしい。ただ法務省や財務省の中にも、改革派、デジタル化推進派は間違いなく存在する。

今後、行政手続きのデジタル改革が本格化すると、まず省庁の内部で、次に省庁間で、利害対立が多発してくることは間違いない。

経産省と総務省は「IoT推進コンソーシアム」で連携する関係にあるし、先に経産省が公表した「自治体DX行動プラン」も、総務省が容認(ないし黙認)したかたちだ。

しかし、経産省主導で「自治体DX」が進めば、結果としてマイナンバーシステムやLG-WAN(総合行政ネットワーク、全国の地方公共団体をつなぐ情報共有システム)の改革に踏み込まざるを得なくなるかもしれない。そうなれば総務省は面白くないだろう。

あるいは、これは筆者の推測と想像だが、国土交通省が外国人を含む建設労働者のキャリア管理を名目に個人情報の管理に乗り出せば、年金と健保、雇用保険を所管する厚生労働省とぶつかることになる。また、キャッシュレス化の進展は財務省(銀行や印紙を所管)と経産省(クレジットやポイントを所管)の軋轢を生むかもしれない。

小泉内閣が打ち出した「e-Japan戦略」以来、自民党の歴代内閣は政策推進姿勢として「骨太」を連呼してきた。今回の行政のデジタル化も、思いつきで企画されたものではなく、昨年1月に行われたeガバメント閣僚会議での決定「デジタル・ガバメント実行計画」に基づいている。

ところが、首相官邸のIT総合戦略本部(高度情報通信ネットワーク社会推進戦略本部)は各省の寄せ集めで、縄張り争いに汲々としているやに聞き及ぶ。これを取り仕切る政府CIO(内閣情報通信政策監)はあくまでもアドバイザーで、何がしか指示をする権限は与えられていない。

IT担当大臣も、無任所の国務大臣なので似たようなものだ。現職の平井卓也大臣は安倍首相の信任が厚いと聞くので、何かやってくれるかも、と期待する向きが現場では少なくない。とはいえ、参院選後には内閣改造があるだろうし、安倍政権がいつレイムダック化するかもわからない。

国や自治体の情報システムにどのような技術を使うのか、ソフトウェア製品やサービスのライセンス管理はどうするのかといったIT標準体系もなく、IT調達基準もない。司令塔や調整役が不在のまま、行政手続きのデジタル改革に突き進んでいけるのだろうか。

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