玉縄城址まで往復1万1千歩

2020-04-26-1544諏訪神社女坂 小田原北條氏(創始者は伊勢新九郎長氏:北條早雲)は一族による分国形式で領地を拡大していきました。徳川家康は北條氏から分国統治方式を学び、それが御三家、松平氏の全国配置につながっていきます。 2代氏綱が3代氏康の支柱と見込んで養子とした北條綱成(旧姓:福島孫九郎、黄色揃の武者軍団を率いたので「黄八幡」と呼ばれた猛将)が城主となり、鎌倉を確保すべく武蔵を睨んだ玉縄城まで、往復1万1千歩。諏訪・御霊両太神社、龍宝寺など、数組の親子連れが散策していました。
2020-04-26-1548諏訪神社 諏訪・御霊太神社の参道。
2020-04-26-1555龍宝寺 北條綱成の墓所があります。
画像4 城門ではありません。小学校の正門です。

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