(193)ヒロニワ大王の即位は何年か

193ヒロニワ大王即位

西殿塚古墳(手白香皇女衾田陵:天理市)

 筑紫の葛子王から見ると、父の仇である物部麁鹿火は、第28代大王タカタ(檜隈高田/武小広国押盾:宣化)元年の旧暦7月に亡くなったことになっています。歴代大王在位年表に従うと西暦536に当たります。

 一方、物部宗本家嫡流の物部尾輿の初出は第27代大王マガリ(勾大兄/廣國押武金日:安閑)元年閏十二月条ですが、中央政界での活躍は29代大王ヒロニワ(天國排開廣庭:欽明)になってからです。越王家と麁鹿火が退場し、旧王統を受け継ぐヒロニワ大王とともに物部宗本家が復活しているところがミソです。

 あまり議論されていないことですが、『書紀』のヒロニワ大王紀は年紀が混乱を起こしています。いや「混乱」というのは語弊があって、『書紀』の編者は時系列が一致していないことを十分に認識したうえで、あえて矛盾したままの記述をしているのです。

 同大王紀は、即位前のエピソードがあって、四年冬十月にタカタ大王(宣化)が亡くなり、同年十二月に即位した、という流れです。ヒロニワ大王元年が西暦540年だとすると、即位前紀の起点は536年です。

 536年というのはタカタ大王が即位した年でして、『書紀』はそのときからヒロニワ王の時代だったと語っているのも同然です。オホド王の没年を527年とする『古事記』説に立って、マガリ王の即位年を4年繰り上げる考え方もありますが、少なくともタカタ王が大王に就いたかどうか、疑問符が付きます。

 もう1つは、タカタ王が亡くなった539年の旧暦10月、即位を薦める群臣に向かってヒロニワ王は「余幼年淺識未閑政事」――自分は幼くて知識が浅く政事をするにはまだ時間が必要だ、と言って辞退します。

 『書紀』は、このときヒロニワ王は自分の代わりに、マガリ王の正妻であるヤマダ女王を共立する提案をした、と伝えています。ところがヒロニワ王は509年生まれとされているので、539年には数えで21歳でした。とても「余幼年淺識」とは言えない年齢です。

 これがオホド王が亡くなったときのエピソードだとすると、『古事記』527年説だとヒロニワ王は9歳、オホド王が亡くなってマガリ王が即位するまで2年の空白(これはこれで研究のテーマですが)がありますので529年なら11歳、『書紀』531年説なら13歳。「余幼年淺識未閑政事」が納得できるところです。実際、後世に成立した書物ですが、『上宮聖徳法王帝説』『元興寺伽藍縁起』はヒロニワ大王531年即位説を伝えています。

 ヤマト王統が途絶えたので、オホド王の招致はやむを得なかった。けれど、マガリ王とタカタ王の大王位継承に正統性は認められるのか。マガリ王とタカタ王は旧王家の血筋にないではないか――大伴金村、物部麁鹿火が後ろ盾でも、ヤマト王権の群臣は納得しなかったのではないか。

 群臣たちはタカタ王の即位を認めず、第24代大王オケ(億計/大石:仁賢)の息女(テシラカ:手白香王女)の嫡男であるヒロニワ王を擁立した、と考えることが可能です。播磨王家をヤマト王統の後継に迎えた時点で、大王は群臣共立の象徴、パワーバランスの調整役になっていたことが分かります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?