(157)倭国は文身断髪と決別した

157馬祖天后(TAIPEI navi)

馬祖天后(TAIPEI navi)

 確認のために書いておくと、「太伯の後」とは華夏周王統・姫氏の子孫のことです。周王朝の初代武王(姫発、伝説上の在位期間は紀元前1046~前1043年)の3代前(曾祖父)を古公亶父(ここうたんぽ)といい、その長男が太伯とされています。

 余談ながら古公亶父は「太公」とも呼ばれ、釣りをしていた呂尚を腹心の軍師に望んだことから、釣師を「太公望」と呼ぶようになりました。また「太公」は華夏では曽祖父のことだそうですから、「太伯」は大伯父(祖父の兄弟)の一般的な呼称だったのかもしれません。

 太伯は末弟の季歴に家督を譲るため、次弟の虞仲(仲雍とも)を伴って、自ら進んで荊蛮の地に出奔しました。「荊蛮」とは長江の中流域から河口付近、さらにその南方を指した蔑称です。家督を継いだ季歴の子が姫昌(諡は文王)、その子が殷を滅ぼして周を樹て、武王となりました。

 荊蛮の地に出奔した太伯は現地の人々から推戴されて王となり、長江の河口付近に都を置いて「句呉」(勾呉)の号を名乗りました。姫宗家に戻る意思がない証として、荊蛮の民と同じく文身断髪(刺青と短髪)した、と伝えられています。

 紀元前5世紀、呉と春秋の覇を競った越國もまた、夏王朝第6代少康の庶子「無余」が会稽に封じられ、文身断髪したとされています。このことからもとは長江河口周辺から南方に住み着いていた海洋族の習俗が文身断髪だったのでしょう。

 文身は一般に刺青と解されていますが、皮膚に傷をつけて墨を入れるのは「黥」、傷が盛り上がって文様となるのが「文身」です。体に鱗を付けると、魚類や爬虫類の害を避けることができると考えられました。

 「魏志倭人伝」は「男子無大小皆黥面文身」(男子の大小無く皆黥面文身す)、「夏后少康之子封於會稽斷髪文身以避蛟龍之害」(夏后少康の子、会稽に封じらるに於いて断髪文身して以って蛟龍の害を避く)、「諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差」(諸国の文身は各々異なり、左と右、大と小、尊と卑の差有り)と記しています。華夏の宮廷知識人にとって、倭人はまさに太伯、少康の後裔であって、驚きに満ちた発見だったのでした。

 西暦238年に使者を送ってきた海の向こうの異族が断髪文身をしていただけでなく、女王を推戴していたので華夏の宮廷知識人は嫦娥(姮娥)や媽祖に代表される不老不死の仙女もしくは天女を想起したに違いありません。

 「計其道里當在會稽東治之東」(其の道里を計るにまさに会稽東冶の東に在り)と説明し、「其人壽考或百年或八九十年」(其の人の寿考、或いは百或いは八九十年)と語るのはそのためです。ただし魚豢という学者が著した『魏略』という史書に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」(其の俗は正歳四節を知らず、春耕と秋収を計りて年紀と為す)とあって、倭人が長寿な理由が解明されています。

 ともあれ華夏の宮廷知識人がずっと描いていた「倭人」は「断髪文身」の海洋民なのでした。ワカタケル大王のころ、倭國は倭人の世界と決別したといっていいようです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?