(119)『書紀』の記事は煮え切らない

119倭の五王はヤマトの王か

劉裕が樹てた宋(Wikipedia)

『書紀』の信憑性に関連して、『三國史記』も好太王碑文に記録される高倭戦争を伝えていない、という指摘があります。どっちもどっち、というのですが、編纂時期が大きく違います。時期が違えば当事者の王権や国際状況が違い、資料の残存状況も違います。

『三國史記』が編纂されたのは事件から800年も後ですし、百済、高句麗、新羅の順で王朝が滅んでいます。戦火と破壊のなかで原資料が失われたのは已むを得ません。 しかし華夏の古文書が揃っていたので、基礎資料には事欠かなかったとも思われます。

一方、『書紀』は養老四年(720)に完成しています。その史料として遣唐使節団で海を渡った学生が華夏の正史を渉猟して写筆しただけでなく、諸家の家伝を上程させ、あるいは白村江会戦(663)の前後に渡来(亡命)した百済王朝の王侯貴族・吏僚らに百済王国の歴史を編纂させたりしています。

国史編纂はオホアマ大王(天武)が「削僞定實欲流後葉」(偽りを削り実を定め後葉に流んと欲す)と詔して始まった国家事業でした。可能な限り正確な情報を集めようとしたのです。そのうえでヤマト王統が正統な王権の所有者であることを証明するのが、『書紀』のねらいでした。

卑彌呼女王の時代はともかく、交渉の記録や華夏皇帝からの詔書などは大切に保存されていたでしょうし、ヤマト王統に戦乱・破壊を伴う王朝交替がなかったなら、少なからず資料が残っていたはずです。

大化の改新のとき、蘇我宗家とともに国史編纂に必要な資料が焼失した、ということがあるので、『書紀』に記載がない理由はそれかもしれません。また、高句麗軍にコテンパンにやっつけられたから、と考えることもできます。つまり不名誉な記録だったので意図的に回避したのだろう、という解釈です。

とはいえ東夷世界最強の軍団に一泡食わせたという部分を切り取って前後の辻褄を合わせれば、決して不名誉な記事にはなりません。『書紀』編者の想像力(捏造力と言い換えても構いませんが)からすれば、容易だったでしょう。

記載がないのは不名誉な記録ばかりではありません。

420年7月、東晋の第11代恭帝(司馬徳文)が相國の劉裕に天下のことを禅譲して「宗」帝国が樹立されます。それを知って、倭の王が表敬の使者を送ったことが『宋書』夷蛮伝倭國条に見えています。東晋の義熙九年(413)是歳条「高句麗倭國及西南夷銅頭大師並獻方物」(高句麗、倭国及び西南夷銅頭大師、並びて方物を獻ず)以来8年ぶりの朝貢でした。

高祖永初二年詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授」(高祖永初二年詔して曰く「倭の讃、萬里貢を修む。遠誠宜しく甄(あらわ)すべく、除授を賜う可し」と)がそれです。高祖は宋帝国初代皇帝となった劉裕のこと。

以後、『宋書』には天監元年(502)まで82年間に計11回も倭もしくは倭国の使者があったこと、「安東将軍」「鎮東大将軍」に叙爵されたことなどが記されています。413年の遣使を入れると90年間に12回というのは、これまでの朝貢外交とまったく違います。

華夏帝国から正式な叙爵を得たのは名誉なことだったはずです。これに対して『書紀』は「呉」國で縫工女を求めさせたとか「呉」國から使者が来た等、華夏江南の国と往来があったことを仄めかしていますが、叙爵や高句麗との戦いについては語ってくれません。煮え切らない表記になったのは、詳細な記録が7世紀ヤマト王権に伝わっていなかったからなのでしょうか。

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