(139)王位継承にまつわる謀略と暗闘

139七枝刀の謎

国宝七枝刀(石上神社所蔵)

 『書紀』が「難波王朝」を好意的に受け取っていなかったのは、王位継承にかかる謀略と暗闘にかかわる記事に端的に表れています。紛いなりにも王統のご先祖さまのことなのですから、もうちょっと書きようがあるだろうと思うほど、身も蓋もなく小馬鹿にした表現が多出しているのです。

 オホササギ(大鷦鷯)大王が死去したあと、スミノエのナカツヒコ(住吉仲)王が兵を興し、太子であるイザホワケ(去來穗別:第17代履中)王の住まいを包囲して火をかけます。本能寺の変のようですが、去來穗別王は脱出して奈良盆地に逃れ、住吉仲王はミズハワケ(瑞歯別:第18代反正)王に滅ぼされました。

 『書紀』の所伝では、住吉仲王の生母は葛城襲津彦の娘・磐之姫命ですから、兄の去來穗別王、弟の瑞歯別王、ヲアサヅマワクゴのスクネ(雄朝津間稚子宿禰:第18代允恭)と同腹の兄弟です。住吉仲王は去來穗別王が妃にしようと思った黒媛(羽田矢代宿禰の娘)を、去來穗別王になりすまして寝取り、それが発覚するのを恐れて挙兵したことになっています。

 懸想した女性を弟に寝取られた大王、兄と弟の区別もできない姫、兄になりすまして劣情を満たす弟と、難波王朝の2代目継承は低レベルなこと、と呆れてしまいます。住吉仲王が厠でしゃがみ込んでいたところ、瑞歯別王の刺客に刺殺された、というのも間抜けな話です。

 古典文学者はこれを「いかにも上代ののどかさ」と評するのかもしれませんが、『書紀』の編者が表現したかったのは「難波王朝の王族は、みんなこんなに下劣だった」ではないかと思います。

 「住吉仲」は「住吉に住んでいる仲王=次男坊」という意味なので、諡号ではなく日常の通称でしょう。その王に味方したのが安曇連浜子と淡路島の兵というのは、明らかに海神族の内輪争いです。安曇連浜子は大鷦鷯大王の股肱の臣でした。その人物が住吉仲王に味方しています。

このゴタゴタで去來穗別王が奈良盆地に入って石上神社(天理市)に居を移したのは、三輪王朝の豪族(葛城、平群、物部)などに受け入れられたことを意味しているのでしょう。

 「泰■四年十■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供侯(倭?)王■■■■作」(表)

 「先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音(晋?)故為倭王旨造■■■世」(裏)

 の銘文を持つ七枝刀(国宝)は、おそらくこのとき石上神社に納められたのだろうと思います。

 「泰■四年」については晋の泰始四年(268)、東晋の太和四年(369)、宋の泰始四年(468)、百済王国の独自年号の4説がありますが、ここでは百済の近肖古王(餘句)が倭と同盟を結ぶに当たって、大鷦鷯大王の先代「倭王旨」に贈ったものとしておきます。

 住吉仲王の挙兵は、黒媛をめぐる兄と弟争いではなく、旧三輪王朝陣営との妥協(和平交渉)を進めるべきと主張するグループと、旧王朝の残党など武力で踏み潰してしまえと主張するグループの主導権争いだったことが見えてきます。去來穗別王の王権は旧王朝陣営に迎えられたからこそ、「冬十月都於磐余」と磐余稚桜宮(桜井市)に王城を構えたのです。

 また「共執国事」は平群木菟宿禰、蘇賀滿智宿禰、物部伊莒弗大連、圓圓(葛城円)でしたし、去來穗別王から「お前はどちらに付くのか」と迫られ、住吉仲王を粛清することで立場を鮮明にした瑞歯別王が「儲君」(立太子)となったのは、その論功行賞でした。

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