(158)華夏を呪縛した神仙の幻想

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『王會圖』 右から百済、新羅、倭の國使

 清代の模写『諸番職貢圖巻』(2011年発見)によって、『梁職貢圖』倭國使題記の剥落部分が復元されたことを、本連載の第155回で書きました。それともう1つ、新羅についても新しい発見があったことを、韓国の聯合ニュースが報じています。

 それは2011年8月11日付の

 「韓国古代史研究の第一級資料の中の一つと見なされる梁職貢図から永遠に消えたと見なされた新羅と高句麗に対する簡略な説明の題記が最近発見された」

 という記事です。

 明らかになったのは次のような文言でした。

 斯羅國本東夷辰韓之小國也 魏時曰新羅宋時曰斯羅其實一也 或屬韓或屬倭 國王不能自通使聘 普通二年其王姓募名泰 始使隨百濟奉表献方物 其國有城號曰健年 其俗與高麗相類無文字刻木為範 言語待百濟而後通焉

 読み下しはおおむね次のようです。

 斯羅國はもと東夷の辰韓の小国也。魏の時は新羅と曰い、劉宋の時は斯羅と曰う。其の実は一也。或るときは韓に属しあるときは倭に属す。国王、自ら使を通じるころ能はず。普通二年、姓は募、名を秦とする王(法興王)、始めて百済に随伴し、表を奉じ方物を献ず。其の国(新羅)に城有り、健年と曰う。習俗は高麗(高句麗)と相類し、文字は無く木を刻んで範とす。言語を侍るに百済を通ず。

 『三國史記』によると、新羅國は西暦503年に「斯蘆」の表記を改め、「新羅」に定めたとされています。『梁職貢圖』が描かれたのは蕭繹(梁第4代元帝)が荊州の江陵に居を構えていた526年から539年の間と考えられています。蕭繹は周辺異族の風貌や装束を調べさせたそうですが、さすがに新羅の表記変更までは目が及ばなかったようです。

 興味深いのは「或屬韓或屬倭」の文言です。ここでいう「韓」が百済のことなのか、辰國の韓王のことなのか、定かではありません。4世紀から5世紀にかけて、新羅は王城を倭人に占拠され、高句麗に臣従を誓って軍事的な援助を受けました。「或屬高麗」でないのは、『三國史記』の記事と異なった印象があります。

 そのことは朝鮮半島古代史の研究に委ねるとして、ここで指摘しておきたいのは、『梁職貢圖』の作者ないし編者がこの題記を読んだとき、どのような思いで倭國使、新羅國使の像を眺めただろうか、ということです。初めて梁皇帝に朝見した新羅の國使を美男に描きたくなったのは理解できるとして、その新羅を支配したことがあると題記にある倭の國使は、あまりにも貧相です。

 梁帝室が新羅の肩を持ち、倭を貶める特段の事情があったとは思えません。『王會圖』を描いた閻立本が生きた時代(601~673)、唐と倭國は交戦した時期があったものの、唐帝室が宗主の名誉を傷つけられたわけではありません。

 にもかかわらず倭國使がインド系と思えるような風貌に描かれたのは、それほどに「倭人は神仙の使徒」の幻想が強かったことを示します。と同時に、「これではバランスが悪かろう」と思う向きもあったのではないでしょうか。『職貢圖』における倭人の肖像は、神仙の幻想が崩れつつあった裏返しにも思えてきます。

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