(192)背景に物部宗本家の家督争い

192背景に物部宗本家の家督争い

気比大社(じゃらん)

 『書紀』はオビト王(聖武)を無事に即位させるために、藤原一族が総力をあげてバックアップしました。そのため、対抗氏族の所伝は藤原氏に有利なように編集・改竄されていると考えられています。

 なかでも物部氏は、第1王朝(三輪王朝)そのものだったかもしれません。その視点で『書紀』や『先代舊事本紀』を読むと、第2王朝(難波王朝)の2代目、イザホワケ(去来穂別:履中)のとき、物部伊莒弗(イコフツ)が初めて「大連」として中央政界に登場していることが注目されます。

 三輪王朝が滅びたあと、その本家筋に近い王族が新王朝の臣として重きを成したと考えるのは故なしとは言い切れません。以後、物部氏は「大連」を世襲しているのですが、もう1つ注目されるのは、伊莒弗のあと、長子・目(メ)の嫡流と次子・布都久留(フツクル)の傍流が交互に「大連」となっていることです。

 麁鹿火は物部宗本家傍流・布都久留のひ孫に当たります。具体的な系図は、布都久留―木蓮子(伊陀寐:イダビ)―麻佐良(マサラ)―麁鹿火となっています。布都久留、木蓮子は「大連」でしたが、麻佐良についての政治的役職を伝える記述は残っていません。

 ――麻佐良は木蓮子の子ではない。

 という指摘もあって、そうすると麁鹿火も物部宗本家傍流を受け継ぐ者だったかどうか、系図上の疑問が生じます。

 麁鹿火という名前について、「角鹿」(ツヌガ=敦賀)とのかかわりが指摘されています。その娘・影媛が恋人の平群鮪(シビ)が殺害されたとき「唯忘角鹿海鹽不以爲詛」(ただ角鹿の鹽に詛いを為すことを忘る)とあることに依っています。角鹿=麁鹿火というわけです。

 角鹿は第14代大王タラシナカツヒコ(足仲彦:仲哀)が即位二年「角鹿笥飯宮(けひのみや)」(伝承地は敦賀市の気比神宮)に仮宮を設けたとする所伝があって、有力な豪族がいたことが分かります。タラシナカツヒコは熊襲征伐のため、筑紫橿日宮(福岡市東区の香椎宮)に起居したともされ、筑紫と浅からぬ縁があるようです。

 というのは、ぐっと後世の松前船に見るように、古代から中・近世の海運は日本海側と瀬戸内海の両岸を結ぶ航路が中心で、海洋交易の船は佐渡~珠洲~輪島~三国~若狭~隠岐~境~出雲~長門~筑紫を往復したのです。直行するなら越―筑紫の間は2~3日を要するだけでしたから、密な情報が入っていたことでしょう。

 「角鹿の鹽」はコジツケ感がないでもありませんが、オホド(男大迹:継体)大王が越・三国の王だったこと、オホド大王の下で麁鹿火がにわかに顕著な活躍を示していることからすると、麁鹿火は物部支族の出自で、宗本家傍流の猶子となった、としたほうが納得できます。

 麁鹿火が筑紫王家の王と王子を滅ぼしたのは、物部宗本家嫡流(目―荒山―奈洗・尾輿)との主導権争いを背景に、より強大な経済基盤を我が物にしようと企んだからではないか、という想像が生まれてきます。オホド王と利権を分け合うことで合意したのでしょう。

 ところが麁鹿火が筑紫王家を不意打ち、または騙し討ちしたことで、ヤマト王権内の反主流派が反撃に転じたのでしょう。非主流派の頭目は、物部宗本家嫡流、すなわち物部荒山・尾輿父子だった可能性もあります。

 もう1つの可能性は、麁鹿火の本貫は筑紫で、筑紫王家と筑紫物部氏の内紛だった、ということです。それを『書紀』の編者がヤマトと筑紫の対決に作り変えたのかもしれません。

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