(145)「いつまでも若い」は美称か

145都名所図絵「大池」小椋池

大池(小椋池:都名所図絵)

 『書紀』が伝える第21代の大王「大泊瀬幼武」の大泊瀬は、大王が宮を構えた大泊瀬という地名に由来します。初期のヤマト王統(三輪王朝)が支配したエリアの東端に当たります。

泊瀬を「ハツセ」「ハセ」と読む由来は「初瀬川が流れているので泊瀬という」だそうです。また初瀬川が長い谷を形成しているので「長谷」を「ハセ」と読むというのですが、これは「AはBである。ゆえにBはAである」という循環論法そのものです。

そもそもは古代の物流を担った水運に由来し、川底が浅くなった場所(瀬)が川湊(川津)になりました。船が発着する浅瀬なのでハツセ(発瀬)というわけです。

初瀬川は宇陀の貝ヶ平山に源流を発し、大和川となって奈良盆地を東から西に横断し、大阪湾に注ぎます。つまり泊瀬の王は水運を抑えていました。万葉集に「穏口(くもりく)の泊瀬國」「穏口の泊瀬小國」とあって、纒向の邑国からすると、水源と水運を牛耳っている山奥の半独立国のように見えたのでしょう。

そこに宮を構えたとなると、幼武王の政治は隠蔽と陰謀を駆使した閉鎖的な運営だったことが推測されます。自分の思い通りになる者しか王宮に近づかせない、諮問しることはあってもそれはごく限られた者で、多くは大王の一存で決まっていく専制的な王権だったと思われます。

さて、本節の主題はそのことではありません。ワカタケルは「若々しく勇敢な」という意味なのか、です。 オホササギ(大鷦鷯:仁徳)に大王位を譲るために自死したのは菟道のワキイラツコ(稚郎子)王でした。

菟道は現在の宇治で、5世紀のころは小椋池を擁する交通の要衝でした。奈良盆地から琵琶湖、大阪湾に抜けるには、木津川を北上して小椋池を渡らなければなりませんでした。王もまた水運と水源を握っていたのです。

それはそれとして、「ワキイラツコ」の「ワキ」は「若」で、「幼武」の「幼」と同義です(イラツコ:郎子はイラツメ:郎女の対語でしょう。なぜ『書紀』が「皇子」と表記していないのかは不明です)。「稚」も「幼」も「若々しい」の意味かというと、おそらくそうではなくて、「末っ子」の意味ではないかと思います。

菟道稚郎子は大王位を継承する前ですから、比較的若くして亡くなっています。妃も子女もいなかった(記録されていない)ので、ひょっとすると成人に達していなかったのかもしれません。

ちなみについ150年前まで、この国では男子15歳が元服(独り立ち)の目安でした。なので『書紀』は「稚」を外していないのですが、幼武王は治世23年、推定62歳で亡くなっています。高齢の大王を「お若い」とか「末っ子」と形容するのは、かえって失礼になるでしょう。

実際、美称として「若々しい」という場合、『書紀』は王名の頭に「稚」を付けています。「稚日本根子」「稚足彥」という具合です。

ではなぜ『書紀』の編者は「幼」の文字を残したのでしょうか。一つには、『書紀』が「難波王朝」を好意的に捉えていないという事情が考えられます。そのことは本連載の138回で少し触れました。

強いていえば、この大王は「大悪天皇」と恐れられた一方、「有徳天皇」とも評されています。彼は守旧派の王族や在郷豪族を一掃し、関東、東海、中部、中国の在地王権と連携して交易利権の最大化を図りました。外柔内剛型で愛嬌のある大王だったのかもしれません。

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