(184)物部麁鹿火の刺客が謀殺した?

184麁鹿火が刺客を放った

物部麁鹿火(菊池容斎画:Wikipediaから)

 「筑紫君磐井の乱」はなかった、とする見解は、『筑後國風土記』に「雄大迹の天皇の世に(中略)俄にして官軍動發りて」とあることに依っています。官軍はヤマト王権の軍兵のことですから、ヤマト王権軍が奇襲攻撃してきた、と言っています。

 もう一つ、『三國史記』に「倭国乱」につながる記事が全く見られません。このことから、動乱そのものがなかったとすることも可能です。『書紀』『筑後國風土記』『三國史記』のいずれに信を置くかで解釈が異なります。

 つまり私たちの古代史は解釈のウエイトがたいへん大きいということです。前後の事情や周辺諸地域とのかかわり、あるいは考古学や民俗学の知見と大きな齟齬がなく、説得力があれば仮説として成り立ちます。本稿はそうした仮説を踏まえてさらに一歩踏み込んだ空想と妄想ですので、小説のアウトラインと言っていいでしょう。

 さて、その上で注目されるのは、『梁書』による高句麗・安臧王の死(526年)のほどなく、「日本天皇及太子皇子倶崩薨」、倭国王と太子、王子が一緒(同時)に亡くなった、という『書紀』引用の『百済本記』逸文です。そこで本稿は、西暦526年から大きくずれない時期に、倭国王=筑紫君磐井とその嗣子、王族がヤマト王権の手で殺害されたと解釈しました。

 「日本天皇及太子皇子倶崩薨」が安臧王の死と同じ年の出来事かどうか、それは原文にある「又聞」の解釈にかかっています。『書紀』は乱の鎮圧(筑紫君磐井の滅亡)をオホド(男大迹)廿二年(528)としていますので、2年のずれは許容の範囲だろう、というわけです。西暦528年の干支に因んで「戊申の政変」と呼ぶことにしました。

 『古事記』がオホド王の没年を「丁未四月九日」(丁未=526年)とするのは、太安麻呂が『百済本記』の「日本天皇」をオホド王と理解したためでしょう。また『書紀』が「或本云う」として「天皇廿八年歲次甲寅崩」(甲寅=534年)の異説を載せるのは、第27代マガリ王(安閑)、第28代タカタ王(宣化)の王位継承を認めず、オホド王からヒロニワ王(欽明)に継承されたとする見方があった証拠だろうと考えられます。

 磐井は反乱軍を起こさなかったし、ヤマト王権軍との間に大規模な戦闘もなかったとするもう一つの理由は、52 7~528年のヤマト王権にそのような余裕はなかったと考えられるためです。オホド政権は奈良盆地の中核地域を抑えている諸国王と在郷氏族と一触即発の緊張関係にあって、六万もの軍兵を任那もしくは筑紫君磐井の乱を鎮圧するために派遣する状態にありませんでした。

 ここで避けて通れないのは、乱の鎮圧に向かわんとした物部麁鹿火にオホド王が告げた「長門以東朕制之筑紫以西汝制之」(長門以東は朕が制し、筑紫以西は汝が制せよ)の言葉です。「專行賞罰勿煩頻奏」(賞罰を行うに専ら煩頻に奏すること勿れ)とさえオホド王は言っています。

 倭済連合の盟主だった武寧王が523年に没し、磐井王が倭國(筑紫國)の王位を継承した。その分家である物部麁鹿火は、オホドが大和の王になれるなら、自分もまた倭國王たらんと望み、刺客を放って磐井とその一族を謀殺した――とするなら、物語は躍動するのですが。

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