(138)「三輪王朝」滅亡を示す出来事

138ミソサザイ

ミソサザイ(鷦鷯)

 オキナガタラシ(氣長足)姫が大和の忍熊王を騙し討ちして追い詰め、遂に忍熊王が瀬田川に身を沈めたという『書紀』の所伝は、九州・筑紫平野を船で発出した軍勢が、畿内の豪族連合を打ち破った史実の写しと考えていいでしょう。氣長足姫、武内宿禰、ホムダ(誉田)王が伝説の人物なら、第16代オホササギ(大鷦鷯:仁徳)大王のときの出来事です。

 大鷦鷯大王紀の即位前紀では、王位に就く前に三輪王朝系のオホヤマモリ(大山守)、ウヂノワカイラツコ(菟道稚郎子)の2王を排除したほか、治世四十年二月にメトリ(雌鳥)王女とハヤブサワケ(隼別)王を粛清しています。庶民の屋根から煙が上がっているか(食べ物に困っていないか)、高殿から案じた心優しい大王のイメージと違って、その王位継承は血塗られたものでした。

 大山守王は誉田大王とタカギイリ(高城入)姫との間に生まれた長男で、王位継承順位は第1位でした。第12代オシロワケ(忍代別)大王―イオキイリヒコ(五百城入彦)王―ホムダマワカ(品陀真若)王―高城入姫ですので、「三輪王朝」の血脈を継いでいます。『書紀』所伝では、菟道稚郎子王が後継者に指名されたとき挙兵し、菟道川(宇治川)を渡っているときに大鷦鷯王が船を転覆させ、水死したことになっています。

 菟道稚郎子王は誉田大王とミヤヌシヤカ(宮主宅)媛との間に生まれました。

 母の宮主宅媛は安曇族とされるワニ(和珥)氏の祖ヒフレノオミ(日触使主)の娘で、菟道稚郎子王のほかにヤタノワキイラツメ(八田若郎女)、雌鳥王女を生んでいます。大和川をさかのぼって奈良盆地に入った海神族のエースが菟道稚郎子王でした。ところがこの王は、驚くべきことに、「自分がいたら大鷦鷯王が大王になれない」と言って自死してしまいます。

 雌鳥王女は大鷦鷯大王の妃になるべきところ、異母兄弟である隼別王(誉田大王と桜井田部連男組の妹・糸媛の間に生まれた王子)と駆け落ちする途中、追っ手の手にかかります。桜井田部連は河内・富田林桜井の豪族と考えられていますが、元が奈良盆地の桜井だとすれば三輪王朝・磯城宮とのかかわりが推測されます。

 大山守、菟道稚郎子、雌鳥王女、隼別王の4忍とも、父親は誉田大王なので大鷦鷯王の異母兄弟ということになるのですが、『書紀』は氣長足姫を正統と位置付けています。つまり「難波王朝」の開闢説話は、生母の血脈がカギを握っています。

 エピソードはともあれ、三輪王朝直系の王位継承第1位・大山守王、『播磨風土記』に「宇治天皇」の表記が残っている菟道稚郎子王、三輪王朝の王位継承有資格者である雌鳥、隼別の4人が相次いで排除されたのは、王朝交代が暴力的に行われたことの反映でしょう。

 ちなみに大鷦鷯の読み方について、『書紀』は神代上で「鷦鷯此をば娑娑岐と云ふ」の注釈を加えています。娑娑岐は「ササキ」の音を示す万葉仮名表記で、スズメ目ミソサザイ科の体長10cmほどの小さな野鳥です。その鳴き声(擬音)を由来とする「小さな鳥」を意味する倭語「サザキ」が語源とされています。

 そのサザキに「大」を付けて諡号とした意図は何なのか、「破夜步佐波 阿梅珥能朋利 等弭箇慨梨 伊菟岐餓宇倍能 娑弉岐等羅佐泥」(隼は天に昇り飛び駆けり斎宮が上のササキ捕らさね:隼は速く高く天=王位に駆け上がり、増長して権高になっている鷦鷯を黙らせろ)の歌を挿入したのは何故なのかを考えると、『書紀』の編者は難波王朝を好ましく思っていなかったのではないか、とも思えます。

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