(123)関東以西を統一した最初の王

122タケル王

泊瀬朝倉宮跡伝承地

親子・兄弟関係、王名と生存時期が一致しないばかりでなく、『書紀』にはヤマト王統の大王が漢字1文字の名で朝貢したことも、宋帝国から下賜された叙爵の記事も出ていません。そこで「倭の五王」はヤマト王統の王ではないのではないか、という指摘が一定の説得力を持ってきます。

関連して想起されるのは第2次大戦の直後に発表された騎馬民族征服王朝説です。

気候変動に伴って北東アジアの遊牧民が南下した事実を踏まえて、第10代ミマキイリヒコ(御間城入彥五十瓊殖)大王の名を「任那の城(ミマキ)に入る男王」と解釈したところからスタートしました。ですがミマキ王統(カッコよくいうなら「三輪王朝」)は疫病を神さまの祟りと考えるような牧歌的な王権でした。

この王統は5代・約100年で奈良盆地と吉野山系をほぼ掌握し、大和川流域や生駒越えを支配下に置いていました。イハレヒコ(神日本磐余彥)大王の東征に際してナガスネヒコ(長髄彥)が展開した防衛戦線が三輪王朝のテリトリーを示しています。

ついでに触れておくと、二倍暦を適用して『書紀』歴代大王の崩年補正によると、ミマキイリヒコ大王は西暦242年に即位し271年に亡くなったことになります。計算上の数字なので、根拠としては非常に弱いのは事実です。ですが本稿は推測、空想、妄想の読み物ですので、一応、この数字を採用しておきます。

ミマキイリヒコについては4つの候補者が挙げられています。1は「倭人伝」が伝える卑彌呼女王の男弟(有男弟佐治國)、2は卑彌呼女王が亡くなった後に立った男王(更立男王)、3は「素不和」だった狗奴國の卑彌弓呼王、4は邪馬壹国の倭人30邑国とは無縁の王です。邪馬壹國を奈良盆地に比定すれば1、2、3が成り立ちますが、本稿は4の「邪馬壹國無縁説」に立っています。

古墳時代の早・初期(3世紀後半)の副葬品は鏡・玉・剣の3点セットなのが、前期になるといきなり墳丘が巨大化し、副葬品が甲冑や馬具、金銅の冠や靴に変わります。そういうことから、騎馬民族征服王朝説はホムダ(譽田:応神)の王統に適用していいのかもしれません。ただしホムダの王統は高句麗族や鮮卑族ではなく、その影響を強く受けて軍制を基礎とした王権という意味で、「騎馬民族的」とするのが適当でしょう。

『書紀』の所伝にとると、ホムダ大王は筑紫の宇瀰で生まれ、大和のオシクマ王を破って王位に就きました。しばらく難波に王城(居宮)を構え、第17代イザホワケ大王(去來穗別:履中)のとき王城を奈良の石上に移しています。第26代オホド大王(男大迹:継体)が即位して19年後、やっと諸臣の支持を取り付けてヤマトに居を移すことができた記述と重なります。

ヲアサヅマワクゴのスクネ(雄朝津間稚子宿禰:允恭)大王の死後、王位継承をめぐる争いで第20代アナホ大王(穴穂:安康)が殺害されています。その混乱をワカタケル(大泊瀬幼武:雄略)王が武断的に収拾した、と『書紀』は記します。見方によりますが、日本列島の関東以西を統一した最初の大王かもしれません。

ワカタケル大王は華夏における「武」字を持つ帝王のイメージです。ところがこのあと、王統は断絶します。そのことはいずれ。


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