(152)最初の女性大王は飯豊青王女

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152飯豊山

飯豊山(Yamakei Online)

 宇治天皇(ウヂワキイラツコ)、市辺天皇(イチベのオシハ)を加えると、播磨王朝の大王はヲケ(弘計/来目稚子:第23代顕宗)、オケ(億計/大石:第24代仁賢)、ワカササギ(小泊瀬稚鷦鷯:第25代武烈)の5人となります。オホササギから数えると5代なので、のちの王位継承権規定に準拠した設定です。

 ただしヲケ王、オケ王の兄弟は、牛飼いの孤児が実は大王の忘形見だったという典型的な貴種流離譚です。来目、大石というもう一つの名前が伝わっていることから、こちらのほうが本当の諱ではなかったかとも思わせます。また、ワカササギの名はオホササギの写しというだけでなく、卑劣な悪事を好んだ大王として描かれています。いずれにせよ、この3代は物語上の人物です。

 『書紀』はオホササギを聖王とし、ワカササギを悪王に位置付けています。これは聖王の禹が創始、暴虐王の桀が滅ぼしたとされる夏王朝の説話を踏まえています。そこでヲケ、オケ、ワカササギの3代は物語をつなぐために設定された架空の人物ではないかと見る向きがあるわけです。

 ヲケ王は487年(『書紀』の記事をもとに二倍暦を適用した歴代大王在位年表による、以下同様)に数え36歳で亡くなっていますから452年生まれ、オケ王は498年に数え50歳で亡くなっているので449年生まれで、3歳違いの兄弟という設定です。オケの2王子はオシハ王の遺児なので、オシハ王がワカタケル王に暗殺された456年は8歳と5歳でした。

 イチベのオシハ王の父は第17代イザホワケ大王(去來穗別:履中)で、429年に亡くなりました。后クサカハタヒ王女(草香幡梭姫)との間にオシハ王、ミマ(御馬)王、イイトヨアオ王女(飯豊青姫、青海王女、忍海郎女)、ナカシヒメ(中磯姫)の2男2女を生んでいます。

 ミズハワケ(瑞歯別:反正)大王が亡くなった411年、オシハ王は王位継承有資格者の筆頭でした。それでも身体に障害があったオアサヅマワクゴ王が大王になったと『書紀』が記しています。ということは、オシハ王はそもそもイザホワケ大王の王子ではなかったのです。

 ではワカタケルが亡くなった479年から、オオド王(男大迹:継体)が王位を継承した507年までの28年間、あるいはシラカ王が亡くなった484年からの23年間、ヤマト王統の大王は誰だったのか、という疑問が湧いてきます。

それを探ると、第一候補は「市辺天皇」の諡を持つオシハ王です。イザホワケ王が没したとき7歳だったとすると、479年は57歳、484年は62歳です。第23代ヲケ王の在位期間(485〜487)をオシハ王が埋め、その次をオシハ王の長女で、葛城氏に保護されていたイイトヨアオ王女が継いだと考えることができます。

 『書紀』はイイトヨアオ王女を「忍海角刺宮臨朝秉政」(忍海角刺宮で政治を執った)と記し、使用する文字も「尊」「崩」と大王と同等の扱いをしています。平安中期までに成立していた『扶桑略記』という書物に「飯豊天皇廿四代女帝」の文字が出ていますし、室町時代の応永三十三年(1426)に成立した『本朝皇胤紹運録』には「飯豊天皇忍海部女王是也」とあり、「清貞」という諡号も付いています。

 ヲケ王とオケ王が王位を譲り合った10か月間だけ執政したと『書紀』が記すのは、王位に空白を作らないための操作で、実際は数年に及んだと見る意見もあるようです。クサカハタヒヒメ―イイトヨアオヒメが難波王朝から播磨王朝に王位をつなぎ、ワカタケル王の忘れ形見テシラカ(手白香)王女を後見したというのは、まさに『書紀』編纂当時の状況そのものです。

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