(146)在地型小王権連合の盟主

いよいよ8月ですねぇ。荒れる秋にならないといいのですが。本連載のストックはあと6本になりました。そろそろ次の記事を書かないといけません。

146獲加多支鹵

稲荷山古墳出土鉄剣の「獲加多支鹵」

 誤解があるといけないので触れておくと、本稿は「ワカタケル大王はいなかった」と言っているのでも、「幼武と諡された大王がいなかった」と言っているのでもありません。元は「建」だった(かもしれない)のを、『宋書』に合わせて「武」に置き換えたのではないか、という見立てをしています。

 また「ワカ=幼」は形容詞「若々しい」ではなく、菟道稚郎子を参照して「末っ子」の意味だろうと想定しました。大王は武断的で専制的だったかもしれませんが、愛嬌があったのではないかと思ったりもします。

 いずれにせよ本当の名前は諱(忌名)といって、両親や兄弟ですら公の場で口にすることを憚りました。それゆえに記録に残っているとは考え難いのです。それは「幼武」王に限ったことではありません。

 「雄略天皇の実名はワカタケル」とする論説があるようですが、「雄略」は8世紀に淡海三船が付けた漢風諡号、「幼武」は『書紀』編者が付けた和風諡号です。

 さきたま古墳群の稲荷山古墳出土の鉄剣銘文「獲加多支鹵」を呉音で読むと、「ワク・ケ・タ・シ・ル(ロ)」、漢音だと「カク・カ・タ・シ・ロ」です。呉音が主流の時代なので「ワケタシル」が近いでしょう。これを「ワカタケル」と読むのは「幼武」に引っ張られているように思われます。

 熊本県和水町の江田船山古墳から出土した鉄剣の銘文にある「獲□□□鹵大王世」は、不鮮明な獣偏(犭)を「蝮」、「鹵」を「歯」と読んで、「タジヒミズハ」=多遅比瑞歯大王=反正と推定されていました。ところが稲荷山古墳鉄剣銘文を境に「ワカタケルと読むことが分かった」と一転しました。5世紀のヤマト王権は関東から九州までを支配していたことが証明された、というわけです。

 本稿も基本的にその推測を否定しませんが、支配の形態については議論の余地があるだろうと推測しています。大王を頂点とする中央集権的な王権を想定する向きもあるようですが、関東、東海、中部、北陸、畿内、中国、九州といった各地に在地型小王権が分立していて、ヤマト王権は交易の利益を共有する連合を形成していたと考えたほうが、実際に近いでしょう。

 というのは、元嘉十五年(438)に倭王珍は「求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔國將軍號」(倭隋ら十三人に平西、征虜、冠軍、輔國の將軍の號の除正を求む)とあり、元嘉二十三年(451)には倭王済が「并除所上二十三人軍郡」(幷て二十三人に軍(将軍)と郡(郡太守)に上る所に除す)とあるためです。

 特に451年の叙爵は23人と人数が多く、将軍と郡太守の号を求めています。地方の王に宋の爵位を得る機会を与えることができるのは、倭國王ならではでした。

 「獲加多支鹵」を「ワカタケル」と読むのが妥当かどうか、「獲□□□鹵大王世」を「獲加多支鹵」に直結するのは拙速ではないか、とは思います。また先ほども言ったように、「幼武」は和風諡号であって、当の大王の死後、その子孫ないし子孫の王権が付けたものです。稲荷山古墳出土鉄剣の「辛亥年」が471年であったとしても、製造されたのは「幼武」の死後ということになるはずです。

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