(77)もう一度、難升米について

077魏率善羌邑長印

魏率善羌邑長」の銅印

正始八年(248)の時点で、倭人社会には魏帝国の率善中郎将が少なくとも2人いました。難升米と掖邪狗です。正始四年(244)に掖邪狗とともに帯方郡を訪ねた伊聲耆、正始八年に「相攻撃状」を伝えた倭載斯烏越が任官されたかどうかは分かりません。

「率善」は「善く率いる」の意で、華夏帝国が周辺異族の部族長に与えた官位です。華夏の帝国は敵対的な異族の族長が部族を引き連れて投降してきた場合、華夏の公民として受け入れました。投降してきた族長を統治機構に取り込むことで領土を広げたのです。

これに対して倭人は、魏帝国にとって友好的な同盟関係にありました。「中郎将」(俸禄二千石、王宮守備隊指揮官相当)銀印青綬は実効性のない擬官ですが、それでも破格の扱いといっていいようですし、部族内での地位や当該異族と華夏帝国との関係が分かります。

ところで冒頭に記した5人の倭人の名前を拼音にして、それを平明なカタカナに直してみます。文字面だけでは拼音を正確に表現できないからです。難升米は「ナシメ」、掖邪狗「イェヤク/ヤザク」、伊聲耆「イシェキ/イセキ」、倭載斯烏越「ワザイシウエツ」といったところでしょうか。

現代の日本人の名前からすると違和感がありますが、1800年も昔のことです。全く別世界の話と考えるほかありません。実際、現在の日本人が倭人の基本的な形質を継承しているとしても、現代に通じる「日本語」の原型が形成されたのは実はぐっと遅く、7世紀以後の万葉仮名をさかのぼることはありません。

まして「倭人伝」は、帯方郡の公文書を陳寿が編集した結果ですから、華夏のフィルターが二重三重にかかっています。曹操、司馬懿のように、華夏風の姓・名に準じる表記にしたかもしれませんし、その際に中華思想が働いたと考えるのが妥当です。

例えば掖邪狗は「邪=訝しい霊的なものを補佐する(掖)下僕(狗)」、伊聲耆は「神霊のお告げ(聲)を伝える(伊)年寄り(耆)」と解釈することができます。どちらかというと意味に重きを置いて倭人の音を漢字に置き換えた可能性が察知されます。

そういう中で「穀物(米:稲や麦、粟など食用となる植物の実)を量る(升)のを咎める(難)」の意味を持つ難升米は、「國國有市交易有無使大倭監之」(国々に市有りて有ると無しを交易す。大倭を使はして之を監す)、「自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之」(女王国以北に一大率を置き検察す。諸国之を畏れ憚る)の「大倭」「一大率」に相応するような表記です。陳寿の思考回路では、「難」が姓、「升米」が名前なのでしょう。

難升米は景初二年(実際は景初三年:西暦2 39年とする説が有力です)の使節団で団長を務め、洛陽に出向いて率善中郎将に任じられ、銀印青綬を下賜されました。また正始八年には、詔書と黄幢を拝仮しています。

帯方郡が倭人社会の窓口と認識していた難升米は、倭人社会でどういう立場にあった人物なのでしょうか。難升米こそ伊都國王である、とする意見もあるようです。次節でそのあたりを探ってみようと思います。

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