(181)武寧王が倭済連合の盟主という幻想

181武寧王

武寧王陵(大韓民国忠清南道公州市)

 本節で取り上げるのは、百済の第25代武寧王(斯摩王)のことです。史料的な裏付けや傍証はないのですが、筆者はひょっとすると、この人物が倭王武と筑紫君磐井の間を埋める王で、一時的であれ倭済連合の盟主だったかもしれないという幻想を描いています。

 ちょっと迂遠ですが、武寧王の5代前、第21代蓋鹵王の治世21年(475)の9月、百済は高句麗軍に滅ぼされました。漢城(現在のソウル北方)が落とされ、蓋鹵王をはじめ王族がことごとく処刑されてしまったのです。

 このとき新羅に救援を求めるべく漢城を離れていた長子・文周王が生き延び、熊津を王都として百済國を復興しました。ところがその文周王は即位4年目(478)の8月、兵官佐平の解仇に謀殺されてしまいます。さらに479年、その後を継いだ三斤王も15歳で亡くなってしまいます。

 王統断絶の危機を救ったのが、昆支王の2男・末多王でした。昆支王は『三國史記』によると文周王の弟、『書紀』によると蓋鹵王の弟ということになっていますので、前者であればその子である末多王は三斤王の従兄弟(5親等)、後者であれば再従兄弟(6親等)です。

 昆支王は百済の人質として倭國にいて、5人の男児をもうけていたとされています。見方を変えると倭國に亡命していたわけですが、婚姻関係から言えば倭王統と同族という扱いだったのでしょう。末多王を除く昆支王の男児がその後どうなったのか、記録は残っていません。おそらく倭國に定着し同化したのに違いありません。

 『三國史記』百済本紀における東城王の記録は「三斤王薨 即位」とあるだけですが、『書紀』はワカタケル廿三年(479)夏四月のこととして、「仍賜兵器 幷遣筑紫國軍士五百人 衞送於國 是爲東城王」(すなはち兵器を賜ひ併せて筑紫の軍士五百人を遣はして國に衛送し、東城王と為す)と記します。「筑紫國軍士五百人」とあるのが、倭國が筑紫王家を指していることを物語ります。

 また『三國史記』はその長子が武寧王(斯摩王)だと言っています。ところが『書紀』は、昆支王に同道していた蓋鹵王の妃が筑紫の加羅島で産んだので「斯摩」という逸話を載せています。『書紀』が正しければ、武寧王は蓋鹵王の忘れ形見というわけです。

 百済王家の王統譜が混乱しているのは、漢城陥落、蓋鹵王の死、文周王の謀殺という事情によるのだと思います。ただ東城王、武寧王と2代は倭國生まれ、倭國育ちですし、武寧王が倭國で作った家族は王が母国に戻ったあとも倭國にとどまっていたようです。

 『書紀』はオホド王(継体)七年八月のこととして「百濟太子淳陀薨」と記していて、その後裔とされる高野新笠が第50代桓武天皇を産んでいます。オホド王七年は西暦513年に相当しますので、高野新笠までの系譜はもちろん一直線ではありません。それはともかくとして、なぜ太子(嫡男)が斯摩王とともに熊津に戻らなかったのでしょうか。

 以上の系譜は倭済同盟がいかに強固だったかを示す以上に、倭國(筑紫王家)と百済王家が同族だったということを類推させます。小説なら、倭王武の王子が百済に渡って武寧王となり、百済と倭國の王を兼ね、さらに太子淳陀の子が磐井王……という空想が湧いてきます。

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