(102)余談:首露王妃はインドの人

102妃はインド人金海金氏

金海金氏の紋章

『駕洛國記』逸文によると、始祖の首露王は後漢・光武帝の建武十八年(西暦42)3月3日、亀旨(クジ)峰に天降った6個の金の卵から生まれた6人の男児の1人ということになっています。始祖が卵から生まれたという伝承は、扶餘族の高句麗王家や新羅王家の朴氏、昔氏、慶州金氏にも共通しています。

倭の王家は加羅王家(金海金氏)と同祖ではないか、という指摘があります。もしそうであれば『書紀』『古事記』などに、始祖の卵生神話があっておかしくありません。しかし金海金氏と共通するのは「山の峰に天降った」という部分に限られます。ニギハヤヒもニニギも多くの随神を引き連れて地上に降りています。

倭・加羅同祖論は、少なからずの人が「加羅の地に倭王権の出先機関として任那日本府が置かれていた」と考えているためでしょう。しかし特報アジア地域で「日本」の識別子が成立するのは8世紀ですのですし、任那=ミマナについては諸説が並立しています。始祖伝説だけ見ても、倭の王家と加羅の王家を結びつけるのは無理があります。

ところで伽耶王統の始祖首露王とミマナにかかわる説話が、『三國遺事』という古文書に出ています。王の妃・許黄玉は「阿踰陀國公主」とあるのがそれです。阿踰陀國は「アユダ」と読み、玄奘三蔵が撰述した『大唐西域記』に見えているインドのサータヴァーハナ朝のことだというのです。「公主」とあるので、その王女というわけです。

サータヴァーハナ朝はインドのデカン高原に展開していたアーンドラ族が建てた王国で、紀元前3世紀から西暦3世紀初頭まで存続したとされています。西暦1~2世紀、海洋交易を通じて獲得したローマ帝国の貨幣が数多く発見されています。

想像と空想を自在に膨らますことができるとはいえ、いくらなんでもデカン高原はないだろうと思うのですが、アラビア湾を横断してペルシャ湾、紅海に船を走らせたことを考えれば、あながちあり得ない話ではありません。

これよりのちのことですが、『書紀』アメヨロズトヨヒ大王(孝徳)の白雉五年(654)夏四月条に「吐火羅國男二人女二人舍衞女一人被風流來于日向」、タカラ女王(斉明)六年(660)秋七月条に「覩貨羅人乾豆波斯達阿」という記事が見えています。

「吐火羅」「覩貨羅」は中央アジアのトハーリスターン、「舍衞」は中期ペルシア語で「王」を意味するシャーフ(ないしシャー)とする研究が、一定の説得力を持って受け入れられています。ササン朝ペルシャの王族が日向に漂着していたのです。

『駕洛國記』の伝承によると、王女の一行は洛東江の河口にある望山島に漂着しました。黒潮と青潮が彼らの船を運んだのでした。そして王女が金王家にもたらしたのは、2尾の魚が向かい合う双魚紋でした。水泡のように見えるのは真珠かもしれません。

王女が上陸した望山島の浜「主浦」(nim-nae)がミマナの語源とされ、それはヒンドゥー語「神魚」(神=ミ、魚=マナ)に由来する、というのは興味深いところです。ちなみに紋章は長い歴史の中で形を変えたかもしれませんが、現在も使われているそうです。

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