(187)筑紫王家の末裔を追跡する

187筑紫王家の子孫

岩戸山古墳の石人(岩戸山歴史文化交流館)

 「磐井の乱」を鎮圧した物部麁鹿火の"その後"が気になるところですが、今回は筑紫王家と越王家についてです。  まず筑紫王家ですが、磐井が物部麁鹿火に斬殺されたあとのこととして、『書紀』オホド王廿二年条は「十二月筑紫君葛子恐坐父誅獻糟屋屯倉求贖死罪」(十二月、筑紫君葛子、父の誅に坐ずを恐れ、糟屋屯倉を獻じて死罪を贖うことを求む)と記します。

 「叛乱」が失敗し、息子は連座するのを恐れて糟屋の屯倉を献上したというのです。糟屋は現在の福岡市東区の大半部です。豊・火の國を巻き込んだ大規模な叛乱だったのに、代償が「そんなもので済んだのか」と驚くとともに、「なんで屯倉なんだ?」という疑問があります。

 屯倉は「天皇家の直轄地」とされています。天皇家とは「大和朝廷の頂点に立つ神聖にして侵すべからざる存在」というのが『書紀』の立場です。それはいったん脇に置くとして、大和王朝の天皇の直轄地が屯倉だ、ということを確認しておきましょう。

 ということは、まず筑紫・糟屋にヤマト王統大王の直轄地があったわけです。磐井王が奪ったのだけれど、反乱は失敗に終わった。それで息子の葛子王が返上したのなら分かります。あるいは筑紫王家の直轄地をヤマトの大王に献上した、ということでしょうか。後者だとすると、『書紀』は筑紫王家が倭國の王統であることを認めているわけです。

 ともあれ、葛子王は死を免れたので、筑紫王家は存続することになりました。『書紀』ヒロニワ大王(欽明)十五年(554)冬十二月条に登場する「筑紫國造鞍橋君」(鞍橋=クラジ)は、年代からいって葛子王の息子の世代でしょう。

 ヒロニワ大王十七年(556)条にも「筑紫火君」が登場しています。「筑紫國造鞍橋君」とは別人ですし、同条引用の『百済本記』は「筑紫君兒火中君弟」(筑紫君の子、火の中の君の弟)としていて、磐井の子(葛子の弟)が養子となった火(肥)君の二番目(中)の弟という意味かもしれません。

 「筑紫火君」は百済に帰還する王子(恵王:第28代百済王)を護衛する「勇士一千」を率いていました。恵王は百済第26代聖王(聖明王)の次男で、その前年、聖王の死去を伝えるために倭國にやってきていました。倭国=筑紫王家がヤマト王権の謀略で力を失っても、倭・済連合は健在だったようです。

 次に筑紫王家の子孫が姿を現すのは、『書紀』カツラギ(天智)王称制十年(671)旧暦11月条に見える「筑紫君薩野馬」、ウノサララ女王(持統)四年(690)冬十月条の「筑紫君薩夜麻」です。

 「薩野馬」「薩夜麻」とも万葉仮名で「サヤマ」と読めることから同一人物だと思われます。671年の記事は、白村江会戦で大敗した倭國の軍兵が帰還したという内容です。筑紫王家は最前線で倭国軍の指揮を取り、大唐帝国の捕虜となっていたのです。ただし「サヤマ」が筑紫倭國の王だったかは定かでありません。

 百済王國は660年に滅亡していて、倭・済連合は崩壊していました。それを機に筑紫王家は一気に凋落した――というのが「九州王朝説」です。なるほど、サヤマを最後に「筑紫君」は登場していません。


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