(85)共存していた入植者と倭人

085縄文海進期の糸島半島

縄文海進ピーク時の博多平野(シミュレーション図)

オサライになりますが、紀元前7世紀ごろから北東アジア地域は寒冷化に向かいました。いや、寒冷化が始まったのはもっと古く、紀元前10世紀ごろだ、という論文もあるようです。

いずれにせよ縄文のピーク時は現在より2~3℃高く、「倭人伝」のころは1~2℃低かったと考えられています。ざっくり1千年で3~5℃下がったことになります。気温が化石になっているわけではないので、2℃の振れ幅は已むを得ません。

青森市の三内丸山の住人は、胡桃や栗が採れなくなったので村を捨て、南に移住して行きました。同じように沿海州や黒龍江流域に住んでいた沃沮、扶餘、粛慎、鮮卑、濊、貊などと表記される北東諸族も南下を始めました。

もう一つ変わったのは海岸線です。縄文の温暖期は南極や北極、高山の氷雪量が減り、海面が現在より10~15m上昇していました。場所によっては40mということもあったようです。福岡、佐賀における縄文海進ピーク時のシミュレーションによると、博多平野と筑後平野は海の底でした。

太宰府のあたりで博多湾と有明海がつながっていて、狭い海峡を作っていたことが分かります。また糸島半島の平野部は海の底で、可也山(糸島富士)をはじめ半島北部の丘陵は、山頂部が島となって浮かんでいました。ただしそれは紀元前10~7世紀のころの話です。

寒冷化に伴って極地や高山の氷雪が増え、波打ち際が後退しました。海底が露出し、湖沼が泥湿地になり、それが水田耕作の適地になりました。朝鮮半島から移動してきた人々が定住した紀元前1世紀のころの博多平野は、一面の泥湿地だったと考えていいと思います。

朝鮮半島の北部から南下してくる諸族の圧力によって、半島南部の人々が対馬海峡にこぼれ落ちます。最初は消極的な理由で海を渡ることを選択した単発の入植だったでしょう。ところが海峡の向こうにフロンティアがあることが分かると、今度は積極的に海に乗り出す人が出てくるようになりました。

あくまでも「現在のところ」という条件付きですが、博多平野には土井ヶ浜遺跡や青谷上寺地遺跡のような、多勢の殺傷人骨が発見されていません。入植者と先住者の間で激しい軋轢が生じなかった、ということのようです。

人口密度が希薄だったのが1つの要因だったとして、それは農作地が競合しなかった縄文人との関係に過ぎません。縄文の人々にとって泥湿地は全く価値のない土地でした。

海洋交易と漁撈を生業とする倭人とはどうだったかと考えると、もちろん初期に多少のイザコザがあって、殺傷事件が起こったかもしれませんが、総じて友好な関係が築かれたのだと推測されます。倭人は農地の拡張を是とする願望を持っていませんし、農作物と海産物は相互に補完する関係を強化しました。

倭人にとって半島からの入植者は、韓、濊、高句麗といった諸族との"つなぎ"役として貴重でしたし、余剰した米は有力な商材になりました。入植者は倭人に米を提供することで、鉄を手に入れることができました。両者が持ちつ持たれつの関係で共存していたのは、国津神に山と海の神々が混在していることからも分かります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?