(86)倭人が水稲耕作を運んだ

086水稲耕作

水稲耕作と河姆渡文化

水稲耕作はいまから1万年前、中国の湖南省の長江流域で始まったとされています。野生の稲を栽培しつつ、より多くの実りが取れるように品種改良が加えられました。ちなみにインディカ種とジャポニカ種に分岐したのは7千年ほど前、紀元前5000年ごろだそうです。

その後、水稲耕作は長江を下り、河口域の南側で発展しました。紀元前5000~4500年ごろ、浙江省の杭州湾南岸~舟山群島の地域にあったことが確認されている河姆渡(カボト)文化(図中、赤点線の円)がそれに当たります。時期的にいって、河姆渡文化で水稲はインディカ種とジャポニカ種に分岐したのでしょう。

河姆渡文化のピークは、気候の最温暖期でした。地球物理学者は地軸が0.5度ほど起き上がったためと考えているようです。日照時間が長くなって北極の気温が現在より4℃ほど高くなったため、北半球では海進が最も深くなりました。

紀元前10~7世紀ごろから、気温が低下し始めました。これにより沿海州や黒龍江流域に住んでいた種族が南下しただけでなく、長江流域以南の種族も動き始めました。度重なる洪水で農地を失った人々が、安定した暮らしを求めるようになったのです。

確認されている最古の水稲耕作遺跡は唐津市の菜畑遺跡で、土器に付着していたススの放射性炭素C14測定値は2930年となっています。±50年の幅を考慮して、紀元前900年ごろと考えていいでしょう。華夏の歴史で並行していたのは姫氏の周王国です。

伝えられる歴代王の治績を参照すると、周王国は第4代昭王(在位:前995~977)の南征失敗を境に衰退に向かい、諸豪族が台頭しました。周時代の人骨を分析したところ、Y染色体が現代の漢民族と大きく異なる結果が出ています。殷も周も春秋戦国の時代も、漢民族の歴史ではありません。

植栽を栽培して食糧を得ることを生業とする種族は、農地(領土)を求めます。ですから周や周の諸侯の人々が、天候不順で失った農地の代替を海の外に求めるというのは、常識的ではありません。対馬海流に乗って移住したのは、海洋の民ということになります。彼らは土佐、紀伊のカツオ漁師のように魚を追って移動し、移動した先にコロニーを作っていきました。

その人たちが朝鮮半島の南岸と九州島の北岸に住み着いたとするのは理があります。東シナ海や渤海で漁を営むかたわら交易に従事し、ときに海賊にも変身したのでしょう。それが華夏の古文書が伝える「倭人」であろう、というのが本稿の立場です。

そうやって東シナ海や渤海の沿岸に展開していた「倭人」は、動物学的ないし人類学的な意味で単一の種族であったのではありません。周代の「夷」族が畎、于、方、黄、白、赤、玄、風、陽、嵎、藍、徐、淮、泗などと書き分けられたのはそのためです。

漢民族と混交したこともあるでしょうし、朝鮮族や高句麗族に取り込まれたケースもあるでしょう。また『隋書』東夷伝百済条に「初以百家濟海因號百濟」(初め百家が海を済るに因み百済と号す)とあるのは、馬韓諸邑國の主体が倭人だったからでしょう。文字通り半島南部と九州北半は一衣帯水だったのです。

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