(142)「難波王朝」で変わったこと

142難波王朝で変わったこと

菅原伏見西陵(伝安康天皇陵:奈良まちあるき風景紀行)

 『書紀』が伝えるヤマト王統の王位継承は、初代のイハレヒコ(磐余彦:神武)から第17代イザホワケ(去來穗別:履中)まで、親から男児への相続です。男児が2人以上いる場合は末男児が相続しています。

 ところが「難波王朝」から年長男児が優先されるとともに、王位継承にかかる骨肉の争いが顕在化します。また兄から弟へ王位を受け渡す傍流継承が始まります。その転機に位置しているのは、ホムダ(誉田:応神)からオホササギ(大鷦鷯:仁徳)への王位継承です。

 ホムダは末男児の菟道稚郎子を後継者に指名しました。旧来の風習に倣ったのです。父親が死んだら相続するのが前提でしたので、年長の男児は成人したら独立する、という考え方です。

 ところが長男の大山守王は末弟の菟道稚郎子王が後継者に指名されたことを知って「なぜ自分ではないのか」と挙兵し、大鷦鷯王に滅ぼされます。当の菟道稚郎子王は大鷦鷯王こそ大王になるべきだと自死しました。大山守王も菟道稚郎子王も、当時の最新の思想を理解していたのに、ホムダ王やオホササギ王は旧習にとらわれていたわけです。

 一方、隼別王は雌鳥王女と恋に落ち、伊勢に逃げる途中で捕まって処刑されます。いずれも在郷豪族との関係があることから、前王朝の王統断絶を示唆していますが、隼別王と雌鳥王女の駆け落ち話は軽王と軽王女の伏線とも言えます。

 以後、第17代イザホワケと第18代ミズハワケ(瑞歯別:反正)は謀反を興した次弟の住吉仲王を滅ぼし、第20アナホ(穴穂:安康)は長兄で「太子」だった軽王を自死させ、ナカシ(中蒂)姫の夫・大草香王を殺害しています。

 第21代ワカタケル(幼武:雄略)はもっと激しくて、アナホ大王暗殺事件に関連して兄の八釣白彦王を斬り殺し、葛城円臣の宅に逃げ込んだ坂合黒彦王と異母兄弟の眉輪王を、円臣もろともに焼き殺しています。ワカタケルはさらに「市辺天皇」の異名を持つオシハ(押磐)王、御馬王を殺害するなど、まさに『書紀』が記す「天下誹謗言 太惡天皇也」(天下誹謗して言う、大悪天皇なりと)の振る舞いでした。

 白王、黒王は葛城円臣を滅ぼした後付けの言い訳、眉輪王は大草香王殺害事件とアナホ大王暗殺事件の裏事情を、ナカシ姫をめぐる男女のスキャンダルに置き換えて分かりやすくする(意図的なミスリードを図る)手法で、つまり「難波王朝」が在郷豪族の筆頭格である物部と葛城を押さえ込んだということでしょう。

 さらにいうと、女性王族が存在感を示すようになったのも「難波王朝」の特徴です。雌鳥王女や衣通姫、軽王女は権力闘争を男女の恋愛・不倫でカモフラージュするために創作された人物ですが、イザホワケの正妻・草香幡梭姫、ヲアサヅマの正妻・忍坂大中姫は大王と対等に言葉を発しています。

 なかでも忍坂大中姫は、身体に障碍があって河内の茅渟に逼塞していたヲアサヅマ大王に代わって王権の運営を担いました。

 草香幡梭姫はワカタケル王の正妻としても再登場しています。2人の草香幡梭姫を『書紀』における系図の混乱と見る意見が多いようです。しかしイザホワケ、ミズハワケ、オアサヅマ、アナホの4代(二倍歴補正在位年表によると426年から457年)の間、草香幡梭姫に相当する女性が大王だった時期があったのかもしれません。

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