(191)その後の麁鹿火はどうなった?

磐井の乱を鎮めたら、お前は筑紫以西を支配せよ、と言われたのですから、筑紫以西の王になったはずですよね? という話です。

191大伴金村

大伴金村(Wikipediaから)

 筑紫王家から離れて、「磐井の乱」を鎮圧した物部麁鹿火の"その後"を見ることにします。豊・火二國を巻き込んだ大乱を起こした天下の大罪人(筑紫王家)は存続しましたが、それを鎮圧した麁鹿火は、第28代タカタ王(宣化)元年(536)の旧暦7月、大連のまま息を引き取りました。

 大伴金村と並ぶ大連として、約40年の長きにわたってオホド政権を支えた麁鹿火でしたが、大王家の外戚になることはありませんでした。一人娘の影媛が第25代ワカササギ(小泊瀬稚鷦鷯:武烈)大王の妃になる機会があったようですが、大伴氏によって平群氏本家が滅ぼされる口実として登場しているだけなので、つまりは物語上の存在です。

 また。『先代舊事本紀』によると磐弓(石弓若子)、毛等(毛等若子)の2男児があったとされています。ですが両人ともに「若子=末っ子」の異名を持っているので、夭逝したのかもしれません。ともあれ、麁鹿火をもってニギハヤヒに始まる物部本宗家(分家・蓮枝が多いので本宗家としました)が断絶しました。

 『書紀』オホド(男大迹:継体)王廿一年秋八月条で、乱の鎮圧に向かわんとする物部麁鹿火に、オホド王は「長門以東朕制之筑紫以西汝制之」(長門以東は朕が制す、筑紫以西は汝が制せよ)と告げています。この記事を素直に理解すると、長門(山口県)から西は朕(オホド王)、以西は汝(麁鹿火)なので、関門海峡を境にしています。

 その場合、「筑紫」は九州島の意味と理解するのですが、「長門に対応する筑紫なのだから、現在の福岡県の意味だろう」とする指摘があります。長門と筑紫の間にある「豊の国」(大分県)はどうなるのか、というわけです。

 「筑紫以西」を現在の地図に置き換えると、福岡県、佐賀県、長崎県それと壱岐・対馬、五島列島といったところでしょう。大分県、熊本県および、有明海の島々や襲の国(鹿児島、宮崎)は筑紫王家の領地として認める、ということなのかもしれません。

 「磐井の乱」を鎮圧した(本稿では、筑紫王家の王と王子を謀殺した、と見立てています)ので、麁鹿火は物部総本家のそもそもの出自である筑紫を物部氏の領するところに加えた――として、しかし朝鮮半島の「任那」経営には参画できませんでした。近江毛野、大伴金村が取り仕切っています。

 528年旧暦11月に磐井を処刑して以後、536年に亡くなるまで、麁鹿火は政治の表舞台から姿を消してしまいます。筑紫以西を領有したことが、失脚につながったとすると、それはなぜだったのでしょうか。

 興味深いのはオホド王の死を境に、ヤマト王権の群臣トップの顔ぶれが変わっている事です。マガリ王、タカタ王の政権でも大伴金村と麁鹿火は大連にとどまっていますが、それは表向きで、実態は大連・物部尾輿、大臣・蘇我稻目、大夫・阿倍大麻呂の3人体制に移行しているのです。

 このうち阿倍大麻呂はオホド王の死を境に中央政権で存在感を示すようになる人物です(初出はタカタ王元年二月条)。麁鹿火の失脚と筑紫王家の復活の背景には、物部総本家の家督争いがあったのだと推測しています。

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