(121)倭國王讃は叙爵されたか
高句麗・長寿王が宋に献上した赭白馬
前節からの続き。
『三國志』は倭地における邪馬壹國を盟主とする邑国連合を「倭國」としていました。倭国の王統に対して魏帝国が「親魏倭王」の金印紫綬を下賜することで正統性を担保し、卑彌呼女王の跡を継いだ男王、壹與女王はその印綬を以って西晉帝国に通好しました。
一方、正始元年(240)に「東倭」は魏帝国の最有力者である司馬懿と接触しています。240年の時点では卑彌呼女王の競合者という意味合いでしょうから、文書で明らかになっている限りでは狗奴國の卑彌弓呼王と考えることができます。ただし、古文書に登場していない人物である可能性は否定されません。
泰始初(おそらく泰始二年:266)から147年後、安帝の義熙九年(413)に倭國の遣使記事が復活します。ただ表記が「高句麗倭國」となっていて、高句麗に「國」の文字がなく倭に「國」が付いていること、高句麗國と倭國の並記でないことが気になります。宋の吏僚ないし『宋書』の編者は、高句麗と倭が合併したとでも誤解したのでしょうか。
義熙九年に相応する『三國史記』高句麗本紀・長寿王元年には「遣長史高翼入晉奉表獻赭白馬」(長史の高翼を遣はして晉に入らしめ表を奉り赭白馬を獻ず)とあり、東晉朝は長寿王を「高句麗王樂安郡候」に叙爵しています。『宋書』高句驪伝はもっと仰々しくて、「使持節都督営州諸軍事征東将軍高句驪王楽浪候」となっています。いずれにしても朝貢とは建前で、正々堂々の面会です。
いずれにしても朝貢とは建前で、正々堂々の面会です。これに対して「倭國」への叙爵は全くありません。高句麗が高倭戦争の捕虜となった首長級の人物を「倭国」の代表に仕立てて、大勝利を誇示したというのは納得できるところです。
421年に朝貢使節団を送った「倭讃」が、「倭國王」と表記されなかったのは、華夏の帝国から「國」とも「王」とも認定されていなかったからにほかなりません。宋の吏僚は413年の「高句麗倭國」の朝貢のとき、倭が高句麗に臣従したと理解していました。そこで「可賜除授」(除授を賜う可し)となるわけです。
「除授」は従来の叙爵を解いて、改めて叙爵することをいいます。「讃」の跡を継いだ弟の「珍」が元嘉十五年(438)に「安東大将軍倭国王」に叙任されていることから、「讃」も同様の叙爵を受けたのではないかとされています。ですがそれなら『宋書』は「倭國王讃」と表記しているべきでしょう。
421年に「讃」は叙任されず、叙爵を得たのは太祖元嘉二年(425)、「司馬曹達」という使者が「奉表獻方物」したときではなかったか、と思います。
ちなみに「司馬曹達」という使者の名前は、明らかに華夏風です。421年に「安東将軍」に叙任されていた(と推測される)からこそ、長史(文官)、司馬(軍事)といった吏僚の設置が可能になっていたのだ、とする見方があります。
ただ「司馬」は晋帝国の王族の姓でもあることに留意すべきでしょう。今風にいうと、倭國王讃は司馬氏の末裔を外交顧問に起用したのかもしれません。