(180)『書紀』王統譜の真実は代数だけ
志貴御縣坐神社(磯城瑞籬宮跡伝承地)
『書紀』が記す5世紀初頭から6世紀前半までの王統譜は次のようです。和風諡号は長いので、分かりやすく簡潔にするために淡海三船が天平宝字六年から同八年(762~754)の間に付けたとされる漢風諡号で表記します。また諡号の前の数字は初代神武からの代数です。
【難波王家】 16仁徳(応神の4男)―17履中(仁徳の長男)―18反正(仁徳の3男/履中の弟)― 19允恭(仁徳の4男/反正の弟)―20安康(允恭の2男)―21雄略(允恭の5男/安康の弟)―22清寧(雄略の3男)※断絶
【播磨王家】 23顕宗(履中の孫/市辺王の3男)―2 4仁賢(市辺王の2男/顕宗の兄)―25武烈(仁賢の子)※断絶
【越王家】 26継体(応神5世の孫)―27安閑(継体の長男)―28宣化(継体の2男/安閑の弟)―29欽明(継体の嫡男)
「どうやら確からしい」のは、第29代欽明(ヒロニワ:天國排開広庭/志帰島)が継体の子で、571年の4月に61歳で亡くなったということです。ヒロニワの和風諡号は「立派な朝廷」(王が群臣と朝の会議をする王宮の庭)の意味でしょう。
もう一つの「志帰島」は、実質的な初代大王とされる第10代崇神(ミマキイリヒコ)の起居「磯城瑞籬宮」に因んでいます。『書紀』が欽明を現行王統の始祖と位置付けていることが分かります。
第16代仁徳から第28代宣化までの13代は、7世紀後半におけるヤマト王統や王宮氏族諸家の伝承から、『書紀』編者たちがああでもないこうでもない、ああしようこうしようと鳩首合議して編み出した王統譜です。すべてが空想、架空、捏造とは思いませんが、重複やパターンがあるエピソードが散見されるなど、創作の痕跡が認められます。確からしいのは文献に基づく記述と代数ぐらいでしょう。
しかしそのような『書紀』であっても、どこかに原型(下敷き)が残っていないかを探ると、第15代応神(ホムダワケ)がキーであることが見えてきます。神武、崇神に続いて諡号に「神」の文字を持つ大王で、生母オキナガタラシ姫も「神功」の神諡号を与えられています。『書紀』は空想上の初代に応神を比定しているのです。
『書紀』の公式な王統譜が架空とすると、応神に発する非公式な王統譜がポイントになってきます。応神の祖とする傍流・庶流のうち、「宇治天皇」の異名を持つ菟道稚郎子が第16代仁徳、「市辺天皇」の異名を持つ市辺押磐が第17代履中、第18代反正、第19第允恭のいずれか、という具合です。
以下は『宋書』が伝える「倭の五王」(讃、珍、済、興、武)は筑紫王家の王統譜と仮定して、ですが――、小説ないし物語を作る視点でいえば、まず最も栄えある「倭王武」に合わせてワカタケルを創作し、時間的に符合するヤマト王統の大王に武王らしいエピソードを集約したと考えることができます。
だとすれば、筑紫王家「倭王武」の後継(葛子)から王権を奪取した528年戊申の変をもって、ヤマト王権ははじめて、王権の始祖を獲得し、王統譜を整えたということができるようです。
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