(118)庚子高倭戦争の前と後
安羅神社(滋賀県草津市穴村町)
西暦391年から404年まで足掛け14年間にわたる高句麗と倭(ないし倭国)の戦いは、庚子年(400)の決戦(庚子高倭戦争)がクライマックスでした。好太王は「歩騎五萬」を繰り出して、倭を「任那加羅」まで追い詰めています。高句麗軍は鎧袖一触の勢いでした。
倭からすると、新羅の金城(現・慶州)から撤退したのは計画のうちでした。幟を旗めかせ、「ここまでおいで」と数百の船で逃げ出したのでしょう。高句麗軍は半島倭地の奥に引き込まれ、手隙になった金城は安羅(現・咸安)の兵に奪われてしまいました。
小さな局面でいえば倭の陽動作戦に高句麗軍が一泡食わされたかたちです。しかし安羅の兵力は大したことはなかったでしょうし、高句麗軍が金城から安羅の兵を追い出すのはどうということはなかったと思います。
王城から避難せざるを得なかった新羅王がいちばんの被害者ですが、『三國史記』新羅本紀は全く無言です。奈勿王三十八年夏五月条に「倭人來圍金城五日不解」(倭人来たりて金城を囲む、五日解かず)とあるのがそれかもしれません。あるいは奈勿王三十八年は西暦393年に当たるので、碑文にある「以辛卯年」のこととも思えます。
碑文の第2面最後部から第3面最初にかけて、「倭潰城」のあとに
■■■■■■■■■■■■■■■■■■九盡臣有■安羅人戍兵満■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■辭■■■■■■■■■■■■■潰■■■■安羅人戍兵
という大きな欠損が続いています。
2回出てくる「安羅人戍兵」は、金城を占拠した安羅國の兵のことでしょう。ここに、城に満ちていた倭がどうなったのか、倭國や加羅國とどのような交渉が行われたのか、「その後」が記述されていたのだろうと思います。
石碑は好太王を讃えるのが目的ですから、「殺倭千余人」といった戦果、加羅國王が恭順の意を示した、倭が二度と侵略しないことを誓ったというような想像が働きます。
ただ翌401年の2月、後燕の慕容盛王が3万の兵を率いて高句麗の北辺を侵略し、好太王が鴨緑江岸に滞陣している隙を突いて、404年に倭が帯方界=平壌付近まで攻め込んでいます。このことからすると、倭は後燕と綿密に連携していたことが分かります。またその後も倭は新羅の領界侵犯を繰り返しています。半島南部から撤退したわけではなさそうです。
庚子戦争のあと、倭は慶尚南道の拠点(オキナガタラシ女王紀に見えている比自㶱、南加羅、㖨国、安羅、多羅、卓淳、加羅、比利、辟中、布弥支、半古)の多くを失い、新羅國の支援を得て加羅國の自立と大駕洛連合が形成されたのかもしれません。その結果、倭は洛東江河口周辺と全羅南道栄山江流域に結集したように思われます。
別の見方をすると、半島南部と九州島北半にまたがるテリトリーを形成していた倭人は、半島南東部の首魁が親新羅・高句麗派に入れ替わることになり、分裂を余儀なくされた、ということでしょう。
それに伴って半島倭人の司令塔は加羅から安羅さらにいえば、半島南西部の倭人社会は親百済への傾斜を強くし、半島情勢の影響を直接受けることがなかった九州北半の倭人社会との溝が深まっていったとも考えられます。
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