青灰に沈む


《 1    》

38歳。独り身。貯金なし。恋人なし。
仕事はある。
その時が来たら死ぬまでだ、と思いながら生きている。
そういえば今年は死に行く場所を探しに行けなかった。今年の夏は忙しかった。


海がいい、と思っている。
その時が来たら海に沈む予定だ。
ただ素面ではどうにも難しそうだから、その時のためにとっておきの酒を用意しておく。700㎖ボトルのボウモアかマッカランあたり。
これを一気に飲み干す。飲み干すと言っても無理があるだろうから、飲めるだけ飲む。頭がふわふわしてかろうじて動けるくらいでやめておく。海に沈む前に急性アルコール中毒で地面に倒れて事切れたら意味がない。最終目的は海の藻屑になることなのだから。


本当は海よりも山がいい。
でもこの日本に誰のものでもない山はなさそうだ。だから海にした。
山よりも本当は森がいい。山頂の森がちょうどいい。あたたかな光と静けさの中でそのまま眠るように土へ還るのがいちばんいい。
だけど森の中でその時を迎える手段はなかなか難しい。だからやはり海に沈むのが最もいい。自ら奮起しなくとも波がきっと飲み込んでくれる。


樹木葬なんて洒落たものもある。だけど墓には入りたくない。誰にも参拝なんてされたくもない。
だから海洋散骨がいい。何も残らなくていい。ただ自然に還してくれたらいい。それだけでいい。
もとより海洋散骨よりも、最もしあわせなことは沈んだ痕跡を誰にも発見されないことだ。


その時の後の心配事はただ一つ。
家にある植物達だけだ。これについてはすでに話が決まっている。この地上で最も信頼しているMさんに全て引き取ってもらう算段だ。
これは遺書のようなものである。だからその時の後には、我が家の植物たちは全てMさんへお譲りする。このことを覚えていてくれてるかはわからないが。


今年の夏はその時を迎える場所を探しに行けなかった。
とはいえ未だ2度しか行けていない。どちらもいい場所ではあった。ただもう少しだけ人に見つかりにくいところの方がいい。
夜、月と星と雲と波。そして1人。心地よくなるまで好みの酒を浴び冷たい海面へと一歩ずつ浸っていく。
単調な波の音には恐怖を感じる。月の明かりは物悲しさを引き起こす。この一瞬で解放されるという事実には安堵が灯る。
その瞬間は恐れだろうか、それともただの心地よさか。
未だ妄想の恍惚に耽りその時を心待ちにして夢を見ている状態である。
だけどその瞬間、これまでの一生で私はもっとも幸福だということはすでに決まっているのである。


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