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【弁護士・佃克彦_2021年11月16日論稿】ヘイトスピーチに対する民事的規制について

1 はじめに


  1. 「憲法訴訟」をテーマとする連載でこのようなことを言うのは恐縮だが、本稿は、ヘイトスピーチの民事責任についての考察である。「民事責任」と言う以上、ことは憲法というよりも民事法の話であり、また、訴訟法の話ではなく実体法の話である。

    しかし、ヘイトスピーチに対して法的規制を及ぼそうとする場合、表現の自由との相克を免れない。そもそも合憲的な規制が可能なのか、仮に可能であるとしてその規制の基準ないし要件をいかに解すべきかは、憲法の領域の議論である。そこで、「憲法」つながりでこの件をここで展開することも許されるだろうと勝手に解釈し、取り上げる次第である。

  2. ヘイトスピーチに対する法的規制のうち、特に民事的規制について考察することには理由がある。
     
    “ヘイトスピーチに対する規制”という場合、よく論じられているのは、刑事罰・行政罰・公的施設の利用制限の問題である(注1)。これらはいわば“公法的”な規制であり、ヘイトスピーチをされる被害者側にはイニシアチブがない。つまり被害者側の人びとは、司法機関や行政機関の取締りや規制に期待をするしかない。

    これに対し、民事責任の追及(訴訟の提起や仮処分の申立て)は、被害を受けた(または被害を受けるおそれのある)本人が起こすものであり、被害者側にイニシアチブがある。つまり、被害者側の主体的な取り組みによってヘイトスピーチと闘うことができるという有用性がある。ここに、公法的な規制とは別に民事的規制を検討する実益があるのであり、この実益こそがまさに本稿の検討の動機付けとなっている。

2 議論の前提としての「ヘイトスピーチ」


前項では「ヘイトスピーチ」を特段定義しなかったが、“ヘイトスピーチのうち、いかなるものを合憲的に規制できるか”をこれから論じるにあたり、議論の前提としての「ヘイトスピーチ」概念をここで確認しておきたい。

ここで確認する「ヘイトスピーチ」概念は、“その中のどれなら規制できるか”という議論の前提とするに過ぎないものなので、広くざっくりと、人びとが「ヘイトスピーチ」だと思うもの全て、とするだけで十分だろう。「それではあまりにもざっくりとし過ぎている」というのであれば、“人種等の属性に基づいてなされる誹謗中傷”という程度の定義でよかろう。

さて、そのような“人種等の属性に基づいてなされる誹謗中傷”(ヘイトスピーチ)のうち、具体的にいかなるものに法的規制が認められるのか。
 

3 法的規制の必要性


合憲的規制の可能性について論じる前に、そもそもヘイトスピーチを規制する必要があるのかを論じておく必要があろう。

規制の必要性とは即ち、法的規制が必要なほどの被害があるのか、という問題である。この点については弁護士会内における私の経験を述べるが、ヘイトスピーチに対する法的規制の可否について会内で議論をすると、必ず、ヘイトスピーチの規制を正当化する立法事実の存在自体を疑う意見が出てくる。しかしそういう意見を言う人に限って、ヘイトスピーチの現場も実例も見たことがない人だったりするのである。(注2)

かくも規制の必要性は、現場や実例に触れたことがない人との間では議論をするのが難しく、本来はこの点についてもじっくりと論証をすべきであろうが、紙幅の関係上、本稿では、安田浩一の書籍(注3)のくだりを引用することで論証とさせて頂きたい。

場面は、排外主義者のデモが大阪の天王寺から鶴橋(つまり在日コリアンの集住地域)を行進した時の話である。この行進のデモ隊は、「朝鮮人」というくくりで、「叩き出せ」「死ね」等と聞くに堪えない言葉(注4)を次々と繰り出して街を練り歩いた。次に引用するのは、このデモに居合わせた在日コリアンのライター李信恵氏に対して、デモの後に安田が「まあ、よかったね。名指しで攻撃されること、なかったもんね」と慰めの言葉を掛けたのに対する李氏の言葉である。

「なんで…よかったの? なにが…よかったの?」
「私、ずっと攻撃されてたやん。『死ね』って言われてた。『殺してやる』って言われてた。『朝鮮人は追い出せ』って言われてた。あれ、全部、私のことやんか。私、ずっと攻撃されてた!いいことなんて、少しもなかった!」

説明をするのも野暮だが念のため述べると、個人を特定した攻撃でなくとも、「○○人」という大きな括りの攻撃であっても、その標的にされたマイノリティの人びとは傷つくのである。ヘイトスピーチは、個人の名指しがなくとも、単なる“不快な言論”に止まるものではなく、現に人が傷つく言論なのである。このようにして心に傷を受けることがないようにすることは法的に保護されてしかるべきであり、法的保護の必要性は肯定されるであろう。この点については本稿ではこの程度にして先に進みたい。

4 民事責任の検討にあたって確認しておきたいこと


  1. 続いて、表現の自由との関係で、果たして合憲的に規制できるのかを検討したいが、その前に確認しておきたいことがある。

    まず確認しておきたいのは、ヘイトスピーチであっても、それが特定人に向けてなされている場合には通常の名誉毀損法理が妥当し、よって問題なく法的保護が及ぶことである。例えば、著名ないわゆる京都朝鮮学校事件(注5)は、京都朝鮮第一初級学校に向けてなされたヘイトスピーチについて、同校を運営する学校法人が原告となって提起した民事訴訟であり、これは、同法人という特定の被害者に対する名誉毀損として構成できる事案なので、今ここで検討の必要がある事件類型ではない。問題なのは、被害者が特定されているとは言い難い場合である。つまり本稿でこれから検討するのは、特定の被害者に向けられたものではないヘイトスピーチの場合にも、個々の特定人が加害者に対して民事責任を追及できるか、という問題である。

  2. この“不特定人に対するヘイトスピーチ”の民事責任の問題を検討するにあたっては、次の点も確認しておきたい。それは、“集団的名誉毀損は名誉毀損にあたらない”というテーゼとの関係である。「○○人」というくくりで誹謗中傷されても名誉毀損は成立しないので不法行為責任を追及できない、という問題である。

    例えば、今から20年ほど前に「石原ババァ事件」というものがあった。これは、石原慎太郎都知事(当時)が、大学教授からの伝聞という形で、「“文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババァ”なんだそうだ。“女性が生殖能力を失っても生きてるってのは、無駄で罪です”って」と雑誌の取材で発言した事件である。石原知事のこの発言に対し、100名以上の女性が原告となり、上記発言が名誉毀損等にあたるとして提訴をした。判決(注6)は、

    「〔被告である石原知事の〕発言は、『生殖能力を失った女性』ないし『女性』という一般的、抽象的な存在についての被告の個人的な見解ないし意見の表明であって、特に原告ら個々人を対象として言及したものとは認められないから、…原告ら個々人についての社会的評価が低下するという道理もないし、現にそのような事実があったと認めるべき証拠も存しない」

    と判示して名誉毀損の成立を否定した。学説もかかる解釈に異論はないであろう(注7)。これら裁判例と学説の解釈は、名誉毀損の解釈としてはその通りであろう。名誉毀損という構成を採る限り、“対象が特定されていなければならない”というハードルは常につきまとう。

    しかしそもそも、ヘイトスピーチを名誉毀損と構成する必要はない。このハードルは、名誉毀損と構成せずによけて行けばよいだけの話である。つまり、他の被侵害利益が侵害されているのではないか、を究明すればよいということである。心の傷は外傷と違って目に見えないため探究も容易ではないが、3で李氏が傷ついていたのを見たとおり、発言上対象が特定されていなくても人が激しく傷つくことはあるのである。かかる事実をまず認めた上で、それをどのように法的に拾い上げるか、を究明する必要がある。

5 被侵害利益の考察


ヘイトスピーチの被害をどのように法的に拾い上げるか。本項ではヘイトスピーチから守られるべき利益(被侵害利益)を考察する。

被侵害利益を基礎付ける法規範としてまず頭に浮かぶのは、差別を禁じる憲法14条1項であろう。同条項は後段で特に「人種、信条、性別、社会的身分又は門地」による差別を禁じており、この列挙事由のうち、人種・性別・門地は、人の生まれによって決定される条件(注8)である(注9)。

憲法はかように、人の生まれによって決定される条件を特に列挙して差別を禁止しており、これは、人の生まれによって決定される条件を理由とする差別が、非人道性において極めて強いということを示しているといえよう。より端的な規範として、いわゆる人種差別撤廃条約(注10)がある。これは、
「人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身」(1条1項)に基づく差別の撤廃のための条約であり、同条約も、人の生まれによって決定される条件を理由とする差別を禁ずる趣旨に出たものといえる。

これらの規定により、人の生まれによって決定される条件を理由とする差別が許されないことは明らかである。のみならず、現に差別をする行為に至らずとも、そのような差別を慫慂するに止まる場合でも、一定の制約を受けることが、これらの規定の存在により正当化されるといえるのではなかろうか。また、3で見た李氏の例を見れば、人の生まれによって決定される条件を理由とする侮辱や害悪の告知についても、それをされないことについて法的に保護することは正当化されると思う。例えば、忘れ物をして「バカ」と言われることと、人種や国籍を理由として「バカ」と言われることとは、心理的衝撃に大きな差があると思われるのである。

以上よりすれば、人の生まれによって決定される条件を理由とする差別の慫慂や、それを理由とする侮辱や害悪の告知を受けない利益は、それ自体独立して不法行為法上保護に値する利益だと言ってよいのではなかろうか。以下、本稿でこの利益を「ヘイトスピーチを受けない利益」と言う。

6 合憲的規制の可能性


  1. 以上、差別の慫慂、侮辱、害悪の告知という加害類型を挙げつつ、そこから帰納的に「ヘイトスピーチを受けない利益」を措定した。

    この「ヘイトスピーチを受けない利益」は、人の生まれによって決定される条件を理由とする差別が許されないという規範を基礎にしているのであるから、かかる利益を侵害する行為は、もとより上記の3つの類型に尽きるわけではない。つまりこれら3つの類型は例示に過ぎないが、ひとまずこの3つの類型の例示をもって表現の自由との衡量に移りたい。

  2. 差別の慫慂にせよ侮辱にせよ害悪の告知にせよ表現行為であるので、表現の自由との衡量をせねばならない。つまり、上記の例示の3つの類型にあたるからといって直ちに違法であるとして不法行為が成立すると言うことはできない。

  3. 表現の自由との衡量にあたり、人種差別撤廃条約における「差別」の定義を参照したい。同条約1条1項は、「人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するもの」を「人種差別」と定義する。今ここで注目するのは、「差別」の意味である。これは、現に差別をする行為に関する定義であるが、この定義は、人種等に基づく「区別、排除、制限又は優先」のうち、一定の「目的又は効果」を有するものをもって「人種差別」としている。(注11)

    つまり、目的または効果の一方さえあれば「差別」にあたるとするのであり、差別の目的がなくても差別の効果が生じるものであれば「差別」たり得るというのである。これは、現に差別をする行為についての定義としては道理にかなっている。差別を“される側”にとっては現に差別をされる事態の問題なのだから、差別の効果さえあればその行為は禁じられるべきであり、その場合に差別を“する側”に目的があるか否かについてまで留意する必要はないからである。

  4. ではヘイトスピーチの場合にはどう考えるべきか。差別の目的がなくとも差別の慫慂となる発言をした場合、それを違法なものと見て不法行為の成立を認めてよいか。差別の目的がない言論を規制すると、以下のような弊害を生じる虞がある。

    例えば、沖縄県辺野古の米軍新基地建設に反対する人びとが米軍基地前で「帰れ!帰れ!」と連呼した場合。これは、反対運動の人びとが“米軍”に対して“出て行け”という趣旨で発している言葉であるが、これを、基地内のアメリカ国籍の人びとが“アメリカ人は出て行け”という趣旨だと受けとめる可能性がないとはいえない。そうするとこの“帰れコール”は、国籍に基づく排除を慫慂するものとして、差別の慫慂にあたり、「ヘイトスピーチを受けない利益」の違法な侵害にあたることになるのではないか。

    しかし、目的がないのにかように発言の外形(効果)から違法だと判断されるようでは、おちおち基地反対運動すらできないことになる。これは表現の自由に対する重大で過度な制約といわねばならないだろう。かかる次第であるから、違法なヘイトスピーチといえるためには、発言者に差別の目的があることを要件とする必要があると思う。

    かかる解釈は、特定人に関する名誉毀損言論の場合と、解釈論上大きく異なるところである。特定人に関する名誉毀損の場合、当該言説の意味内容は、「一般読者の普通の注意と読み方」(注12)を基準に判断される。つまり、執筆者の側がどういう意図で書いたかという視点ではなく、読者から見てどのように読めるかという視点から判断されるということである。

    執筆者としては別の意図で書いたのに“名誉毀損だ”と判断されてしまうということは、執筆者にとって酷ともいえ、表現の自由に対する少なからぬ制約であるとはいえるが、対象を特定してする言論である以上、執筆者はそのくらいの責任を持って気をつけて書け、ということなのであろう。しかし、対象の特定性がない言論についてまで、発言者の意図とは異なる受け止め方を前提にして法的責任を発言者に課すというのは、表現の自由をあまりにも危険にさらすものといわなければならない。

  5. 4では差別の慫慂に焦点を当てて述べたが、侮辱や害悪の告知の場合でも同様に解すべきだと思う。侮辱的言論や害悪の告知の場合、発言者に差別の目的が認められる場合がほとんどであろうが、それでも例えば、出入国管理政策や戦後補償問題などの政策論争の場面等において、発言者の表現が行き過ぎることがあるかもしれない。つまり、差別の「目的」はないものの侮辱や害悪の告知と言いうる発言が発生するかもしれない。

    その場合に、発言者のモラルを問うことはよいとしても、その言論を違法視することは、表現行為をあまりにも窮屈にするであろう。したがって、対象者の特定されていないヘイトスピーチの場合には、侮辱や害悪の告知のケースについても、差別の目的を要件とすべきであると考える。

  6. 次の問題に移る。表現の自由に対する配慮として、目的を要件とすることで足りるであろうか。表現行為は言語の意味内容が問題となるため、「慫慂」・「侮辱」・「害悪の告知」と言ってもそれぞれに程度・幅がある。この“程度・幅”の問題を考慮しなくてよいのだろうか。

    この点の検討にあたり、特定人に対する名誉感情侵害の問題を想起されたい。名誉感情侵害の場合、他人の名誉感情を侵害したとしても即違法になるわけではない。名誉感情侵害は、「社会通念上許される限度を超える」場合に初めて違法となる(注13)。かように名誉感情侵害が著しい場合にのみ違法とする解釈は、表現の自由に対する配慮の表われであろう。

    これと同様に、「慫慂」・「侮辱」・「害悪の告知」についても、違法視するのは、「社会通念上許される限度を超える」場合に限定すべきだと私は思う。このように限定的に解しても、実際に行なわれているヘイトスピーチの事例(3で述べた李氏の遭遇した事例を想起されたい)であれば、明らかに「社会通念上許される限度を超える」ものといえるであろう。

  7. 以上の次第であり、特定人に向けられたものでないヘイトスピーチを違法とするについては、差別の目的を要件として要求し、かつ、「社会通念上許される限度を超える」場合に限定して初めて合憲といえると私は考えている。

7 特定人に向けられた言論でない点をどう扱うか


以上、ヘイトスピーチにつき、表現の自由との衡量の観点から、違法としうる要件を加重する解釈をしてきた。では、これらの要件のハードルを越えたヘイトスピーチであれば、それを受けたマイノリティの人びとにはみな損害賠償請求権が認められるのだろうか。

例えば、「○○人は死ね」等というヘイトスピーチがあった場合、「○○人」に該当する人すべてに損害賠償請求権が発生するのか。これは否定的に解されると直感的に思うが、他方、3の李氏の例のように、本人が深く傷ついている例がある。この点をいかに考えるべきか。

この問題はつまるところ、行為と結果との間の因果関係の問題であり、また、加害行為の態様と利益侵害の内容との相関関係に基づく違法性判断の問題である。つまり、身も蓋もないことを言えば“ケースバイケース”であるが、ここである程度具体的に検討してみたい。

  1. まずは3の李氏の例を見る。李氏が遭遇したデモは、天王寺から鶴橋という、在日コリアンの集住地域に乗り込んでなされたものであり、そこで在日コリアンの人びとがそのヘイトスピーチに遭遇することは当然であるし、また、ことは集住地域の現場で起きているので、因果関係の結びつきが直接的でかつ近接的である。また、集住地域でデモが行なわれたということは、デモ隊自身があえて在日コリアンに直接ヘイトスピーチを向けるためにやって来たことが明らかであり、その意味で、行為者に利益侵害の故意(しかもかなり情状の悪い故意)が認められる。

    以上のような、因果関係の存在、及び、因果関係の直接性や近接性も含めた侵害行為の態様に照らすと、マイノリティの集住地域で行なわれたヘイトスピーチに、そのの現場でマイノリティの人びとが遭遇したのであれば、それら遭遇した人びとには皆、損害賠償請求が認められて然るべきだと私は思う。この結果に対しては、「それではお前は何百人、何千人もの人に損害賠償が認められ得ると言うのか?」という反応があるかもしれないが、これに対する答えは、「その通り。」ということになる。デモ隊はそれほどひどい加害行為をしているということである。

  2. 次に、インターネット上でヘイトスピーチがなされ、それをマイノリティの人が閲覧・視聴した場合はどうか。この場合は、因果関係はあろうが、その因果関係は、インターネットを介している点で間接的であり、また、近接性に欠ける。そしてその帰結として、インターネットを介した閲覧・視聴の場合の心理的衝撃は、自身の居住地域に乗り込まれてヘイトスピーチに直接遭遇した場合のそれと比べると、相当の径庭があるのではないかと思う。

    また、インターネットの場合、それをマイノリティの人びとが閲覧・視聴しなければマイノリティにはそのヘイトスピーチは伝わらないところ、ヘイトスピーチをした行為者が、マイノリティの人びとによる閲覧・視聴の可能性をどれくらい認識・認容していたかは事案により区々となる。この認識・認容の有無や程度は加害者の行為態様の点において違法性判断に影響を与えるものであるといえ、よってこの点の内容次第で違法性の有無は変わってくると思う。

    これらの事情に照らすと、インターネット上のヘイトスピーチに関しては、それをマイノリティが閲覧・視聴してしまったからといって損害賠償請求を認めることは基本的に難しく、請求が認容される場合があり得るとすればそれは、当該言論の内容やその言論が向けられた対象、更には前述の認識・認容の程度等の事情に関わってくるのではないかと思われる。

  3. それでは、1のような集住地域ではなく、何らかの集会でヘイトスピーチがなされた場合はどうか。

    それが例えば、マイノリティの人びとの集会に乗り込んで来てヘイトスピーチがなされたのであれば、事情は1と同様といえ、その集会の場にいたマイノリティの人びとには損害賠償請求が認められてしかるべきだろう。

    他方、ヘイト団体の集会にマイノリティの人がやって来てヘイトスピーチに出くわした場合はどうか。この場合も、因果関係の直接性や近接性は1の場合と変わらないであろう。しかし、ヘイトスピーチをした行為者に着目すると、自分のヘイトスピーチが直接その場でマイノリティに届くことは想定していなかったかもしれない。また、マイノリティの側に着目すると、自ら危険に接近している側面も否定できない。これらの事情をふまえると、発言者に、その集会にマイノリティの人がいることについての具体的な認識がある場合は格別、そうでない限り、その場にいたマイノリティの人に損害賠償請求が認められるのは難しいのではなかろうか。

    更に、マイノリティの集会でもヘイト団体の集会でもない集まりや、マイノリティの集住地域でない場所におけるデモにおいてヘイトスピーチがなされ、該当するマイノリティの人がたまたまその場にいてそれを耳目にした場合はどうか。この場合は、マイノリティの人がその場にいる可能性の程度や、スピーチの内容のひどさ(利益の侵害の程度の大きさ)によって結論が異なってくるのではなかろうか。

8 おわりに


ヘイトスピーチに対する不法行為責任追及の可能性については、まさに本誌(法律時報)の93巻2号に若林三奈の論考があり(注14)、同論考では被侵害利益として平穏生活権を措定している。本稿で私はそれとは異なる切り口を提案しているのであるが、若林の論考と比べると、本稿は単なるレトリックの積み重ねなのではないかという気がしてきて甚だ心許ない。

ともあれ私には、民事責任追及の可能性について活発な議論が起きてほしいという思いが強く、私はいわば、自分の非力も省みず恥を忍んでこの論戦に勝手に加わっているわけである。叩き台にせよ叩かれ役にせよ、本稿が何らかの形で次の議論を呼び込むきっかけになればと願うばかりである。


注釈一覧

注1 
代表的なものを挙げると、古くは内野正幸「差別的表現」(有斐閣、1990年)167頁以下が差別的表現への刑事罰の可能性を提案している。また、東京弁護士会は2018年に「地方公共団体に人種差別撤廃条例の制定を求め、人種差別撤廃モデル条例案を提案することに関する意見書」を公表し、同意見書において、ヘイトスピーチに対する行政罰や公の施設の利用制限について提案している。更に、川崎市は、2019年に「川崎市差別のない人権尊重のまちづくり条例」を制定し、同条例では、一定の場合における刑事罰を定め、また、ヘイトスピーチが行なわれるおそれがある場合における公の施設の利用制限の可能性について定めている。

注2 
論究ジュリスト14号159頁以下の「表現の自由」と題する座談会は、曽我部真裕の「ヘイトスピーチと表現の自由」と題する基調報告をふまえた討議である。基調報告の中で曽我部がヘイトスピーチの実害について報告をしたのに対し、座談会では、長谷部恭男が「実害があるというご紹介がありましたが、…どうも見たところ、生命、身体、財産が危険にさらされるというのとは、レベルが違うと思います…。」と言い、駒村圭吾はこれを「不快な言論、品位に欠けた言論」との範疇に留め、川岸令和は「ムッとする感情みたいなものは、一般的には、法的な請求を根拠付けないということになるのだと思います」と言う。ヘイトスピーチの実害に対するこのような受け止め方を見るにつけ、実例や被害状況に対する認識や理解が得られていないと思われてならない。

注3 
安田浩一「ヘイトスピーチ 『愛国者』たちの憎悪と暴力」(文藝春秋、2015年)11頁以下。

注4 
引用もはばかられるような言葉が多いので、詳しくは原著を参照して頂きたい。

注5 
京都地判平25・10・7(判時2208号74頁)、大阪高判平26・7・8(判時2232号34頁)。

注6 
東京地判平17・2・24(判タ1186号175頁)。

注7 
「新注釈民法(15)債権(8)」(有斐閣、2017年)494頁(水野謙執筆部分)は、「名誉毀損が成立するためには被害者が特定していることを要する。したがって、例えば『A地方の人たちは粗野である』と表現しても名誉毀損にはならない…。昨今のヘイト・スピーチも同様の観点から、名誉毀損は否定されるだろう(ただし特定の団体・個人を対象とするヘイト・スピーチは別論である…)。」としている。

注8 
論者によってはこれを“個人の努力では変えられない”条件という言い方をするものもある。しかしこの言い方では、“本人はそれを変えたがっている”というニュアンスが入ってくる気がするので、私は使わないことにした。人種等による差別は、“変えたいのに変えられない事由”を理由に差別しているという問題なのではなく、生まれによって決まっている事柄を勝手にあげつらいそれを理由にして差別をしている点が問題なのであろう。

注9 
「社会的身分」も、人の生まれによって決定される社会的地位を言うと解すれば、人種・性別・門地と一緒に本文で列挙されるべき事由となるが、学説上その意義については争いがあるので、本項では人種・性別・門地と同列には扱わなかった。

注10 
あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約。

注11 
人種差別撤廃条約1条1項は、「人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身」に基づく差別を規制対象とするものであり、「国籍」に基づく差別が同条項の射程に入っているかについては争いがある。しかし本稿で問題にしたいのはこの射程の内外の問題ではない。本稿で検討したいのは、「国籍」に基づく差別も許されないことを所与の前提として、その「差別」該当性をどのように判断するかの問題である。つまり、同条約の同条項を本稿で参考にするのは、「差別」の意味の部分である。以下、国籍による「差別」の問題を論じるにあたり、この条項を参考に論じていく。

注12 
最二小判昭和31・7・20民集10巻8号1059頁。

注13 
最三小判平成22・4・13民集64巻3号758頁参照。

注14
若林三奈「集団に対する差別的言動と不法行為―人間の尊厳と生活平穏権」法律時報93巻2号(2021年)94頁。

初出:2022年「法律時報」1月号

佃法律事務所 弁護士 佃克彦
“正義の味方”にあこがれて弁護士になり、気がつけばもう30年。さまざまな事件に出合い、数多くの経験をしてきました。事案に応じて他の事務所の弁護士と連携し、フットワークは軽く、しかし強い信念を持って皆さんの人生やお仕事における前進のお手伝いを致します。お気軽にご相談下さい。

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