中3奈良研修レポート テーマ 奈良(京都を少し含む)の仏像の種類の違いと、時代による変化について


説明

このnoteのいきさつ

私は上野が大好きである。3歳ぐらいから(もっと小さかったかもしれな)上野に通い詰めていた。
なので博物館や美術館も好きになった。
その関係で科学も歴史も美術も好きになった(虫だけは多分昔は好きだったのに今はだめになってしまった)。
その関連か、私は仏像がとても好きであった。特に奈良とか京都に行って資料集に載っているような仏像を見るのが中学での夢であった。
そして私の中学校では中3で奈良(と宇治)に旅行に行ける。
自分たちでどこに行くか決めるとき、班長権限及び班員が特に反対意見とか言わなそうだったこと、そして金魚ミュージアム以外は他に行きたいところもなさそうだったおかげで、ほぼ自分の行きたいところ(≒仏像巡りしたいところ)で旅行日程を組むことが出来た。

さて、話は変わって、研修旅行(一般的には修学旅行というのか?うちではこの呼称だった)では事前レポートと事後レポートを提出しなくてはならなかった。
私はレポートガチ勢だったので結構な文字数書いた。テーマは仏像について。仏教の概略・仏像の概略から始まり、そこから各見ていく仏像の詳細みたいな感じだ。
後半の考察は割とありきたりだが、調べ学習としてはよくまとまっている(俺のレポートあるある「調べ学習だけが良い」)。

そしてTwitterで「俺は仏像が得意で~昔書いたレポートがメッチャよくまとまってるから仏像入門になってて~」みたいなほら(?)を吹いてたら、FFに「今度どっかの機会で仏像見に行くかもしれないからレポートの写真頂戴~」って言われた。
しかし、このレポートは「手書き」である。
そしてあまりにも文字が汚い。私は当然読めるのだが、班の中で優秀なレポートを決めるときに、「多分下調べとかもちゃんとしてあるし、情報量も多いし、内容もはっきりしているけど、字が汚い」みたいな評を食らい、別の女子が推薦されてた。(残当)
なので、一個一個文字打ちをすることを約束していたのだが、これが多分半年前ぐらいの話か?
そして恒例の「哲学的ゾンビと一緒に上野をまわろう!」ツアーで、今回多分仏像を紹介するのが求められている。(法隆寺宝物館を案内してほしいみたいな話があった気がする)
まあ、事前レポートぐらいまでは仏像の見方の勉強になると思います。
さらにそこから事後レポート「2.考察、結論」を読めば仏像についてより詳しいことがわかるであろう。
なので、このタイミングで急いでnoteに文字起こしをしようと思う。
ルールは前書いた「こころとからだ」で書いた通りです。

誤字していようが関係なしにそのまま写します(やばい時は注釈つけます)。

私のnote『こころとからだ

特にこのレポートは鉛筆でガーっと殴り書きで下書きしてからボールペンで転記・清書しているのでその時脳死でやっているはずで、そのせいで変な誤字が多い。そういうのは全部(注:)とついている。
では最後に長くなったので、まとめてから始めよう。
(注意:事前レポートは2017年9月1日(2学期始まる当日に仕上げるとかやっぱり俺ですね)、事後レポートは2017年10月(日付は記載し忘れていた)に書いている。なので書いている時代に違和感があったらこの近辺のことは自分で調べてください。例えばこの時期興福寺は改装工事中です。)

説明 まとめ

  • 中3の時に書いた奈良の仏像に関してのレポートをここに書き写す

  • 仏教とか仏像とかについて結構わかりやすくまとめてあるはず

  • 事前レポートぐらいまで読むと、仏教何にもわからない人から、仏像の見方がわかる人になると思う。

  • 事後レポートの考察、結論は割といいレポートの題名に対するまとめになっていると思う

事前レポート

1.研究テーマ

題名のとおり、「奈良(京都を少し含む)の仏像の、種類の違いと、時代による変化について」である。しかし、これだけだとあまりよくわからないであろうから色々と説明と(注:「を」の誤字やな)加えようと思う。
まず、「奈良(京都を少し含む)の仏像」とは、研修旅行で見学する仏像のことを指し、すなわち、あくまで奈良県の法隆寺、興福寺、薬師寺、新薬師寺、東大寺、奈良国立博物館、京都府の平等院を中心とした話という意味である。
次に、「種類の違い」であるが、これは、製法や材質の違いではなく、如来や菩薩などといったどちらかといえばどのように表しているのかといった意味である。
最後に、「時代による変化」だが、それは読んで字の如く仏像の制作方法や仏の表現の仕方の変化についてである。
上記のことを仏像は、仏教のものであるので仏教の歴史から入り少し教えを記し、そこから仏像のあらましを記して、そして特筆すべき仏像を一つずつ説明していこうと思う。
仮説としては、「種類によって形式はある程度決まっている。また、時代ごとに好まれる表現方法が変わり、変化していると言える。」ということにする。

2.テーマについての調査結果、考察

①仏教について

(注:見出しを二階層じゃなくてもっとつけさせてほしかった。便宜上本当は①の階層はもう一つ下だが、ここでは2.と同じ小見出し階層で記す。)

1でも述べたとおり、仏像を知るにはまず仏教のこと知らなくてはならないので、まず仏教の説明に入る。
仏教というのは、仏陀と称せられる歴史的人物ゴータマ=シッダールタの創始した宗教である。
紀元前463年頃ゴータマ(注:なんで過去の俺は姓で呼んでるんだ……?シッダールタが名前です。歴史的人物なので仏陀とは呼びたくなかったんだと思いますが。)は王族である釈迦族に生まれた。
29歳の時に深い人生の問題から出家した。
そして、アーラーラ=カーラーマとウッダカ=ラーマブッタという二人の仙人と(注:「を」の誤字。下書き(鉛筆)から本書き(ボールペン)するときに脳死で書き写してたから、字が汚くて「を」と「と」を写し間違えたんか?)順次に歴訪し、かれらの体得した禅定を修したが、その修行法に満足し得ず、そこで山林に籠って六年間苦行に勤めたが、やはり覚りを得ることはできなかった。とてもやせほそったが、少女がくれた一杯のおかゆを食べ、ブッダガヤーの菩提樹の下で座禅をし、悪魔が様々な誘いや欲望をささやきかける中で、三十五歳で覚りを開いた。そして「覚者」という意味の「ブッダ」と呼ばれるようになり、仏教が誕生した。
そして六年間一緒に苦行に勤めた5人の仲間を皮きりに、たくさんの信者を増やしていった。
そうこうしているうちに紀元前383年頃、クシナーラーの沙羅双樹の下で入滅した。享年80歳。
死後、仏陀の教えをまとめる為、約500人の弟子が集まり、第1回経典結集という仏陀の教えをまとめる会議が開催され、大迦葉と阿難陀という弟子が中心となった。
阿難陀は、多聞第一として知られている。つまりは、たくさん仏陀の教えを聞いたということである。なにせ唯一の仏陀の身の回りの世話をした人である。多聞第一なので、仏陀の教えをたくさん聞いて覚えていたので、経典結集では、阿難陀の発言を基に色々まとめられた。(ちなみに、経典の多くは「如是我聞(注:「じょぜがもん」とふりがな付き)(是くのごとき我は聞けり)」という言葉から始まっているが、「我」とは阿難陀のことである。)
色々まとめられて、今まで言うならば哲学のようなものであったゴータマが作った教えは、仏陀が創始した宗教、「仏教」となった。(注:これは中3の時の私の意見です。)
次に大乗仏教の説明に入る。
第1回経典結集の100年後、第2回経典結集が開かれたが、ここで事案が発生する。仏陀が教えを説いてからもう100年、「時代と一部合わないのでは?」という人や、「仏陀はこんなこと言ってない、こういう意味のことを言ったのだ。」など、話が噛み合わず、仏教が様々な部派に分かれた。主に保守派である上座部と、革新派である大衆部に分かれた。がどちらも部派の内で教義は独占され、民衆にはあまりなじみの無いものへなっていった。
それではまずい、と思った僧が増えそういう人達が大乗仏教を作った。
今までの仏教と大乗仏教は何が違うのかというと、まず、そもそも目的が違う。今までの仏教は、自分が修行して、徳をつんで覚り、または修行している人を応援して徳を分けてもらうことが目的、つまり自分が救われることを目的としていたが、大乗仏教は他人も救えるようになる為に修行する、ということを目的としている。
また、今までの仏教は仏陀のみを信仰していたが、大乗仏教は、仏を拡張し、仏陀の他にも様々な仏がいると考え、その規模は宇宙のあらゆるところに仏がいるとまでされた。たくさんの仏を民衆を含めてわかりやすく示す為のものが、これから説明する仏教なのである。(注:「これから~なのである。」まで赤ペンで波線で下線が引かれている。けどその癖ここには重大な誤字があると思われる。「仏教」ではなく、「仏像」である。キメの部分で誤字をするな。)
の前に、たくさんの仏がいると言ったが、種類は大きく分けて4つとなる。一つ目は「如来」といい、覚りを開いたものの総称である。二つ目は「菩薩」といい、覚りを開く為に修行しているものの総称である。三つ目は「明王」といい、間違った考えを持っているものを、強制的に教化させる、如来や菩薩などの化身のことである。四つ目は「天」といい、如来や菩薩を護る為の神のことで、多くは多神教から取り入れたものである。(このうち、「日本の神は、仏の化身である」という考え方のことを、「本地垂迹(注:「ほんちすいじゃく」とふりがな付き)という。)
如来には「釈迦如来」、「阿弥陀如来」、「薬師如来」、「思慮遮那仏(注:「毘盧遮那如来」の誤字。漢字苦手過ぎか……?)」など、菩薩には、「弥勒菩薩」、「文殊菩薩」、「普賢菩薩」、「地蔵菩薩」、「大勢至菩薩」、「日光菩薩」、「月光菩薩」、「観音菩薩」など、明王には、「不動明王」、「五大明王」、「愛染明王」など、天には、「四天王」、「仁王」、「八部衆」などがいる。
今回行く奈良(京都を少し含む)では見られない仏もいるが、大体上記のような仏の仏像を見学する。
(ちなみに、四つの仏の仏像の見分け方というのは、釈迦が覚りを開いた時は修行者の服装をしていたので、如来は質素な服装、釈迦は覚りを開く前は王族だったので、菩薩は豪華な服装、強制的に服従させる為、明王は怖く、恐ろしい顔は(注:「と」の誤字?)体つき、天は土着神なのでとても多様な、どれにも当てはまらないような姿をしているので、それで見分ける。)

③仏像について

(注:②どこ行ったんだよ!!!本書きする途中で転記ミスか?)
いよいよ本題に入る。
前にも記したとおり、大乗仏教では仏がたくさんいるので、仏像で表したと記した。では、今まではどのように信仰していたのかというと、直接人物を造形して崇めていたのではなく足跡や菩提樹、法輪などを信仰していた。(仏陀を直接崇めるのは恐れ多いからである。)
が、紀元前180年頃にマトゥラー・ガンダーラなどで仏像が作られ始めた。(偶像があった方が信仰しやすいからである。この地域では、ギリシャとの交流が深かったことから、彫られた仏像も西洋人のような彫りの深い顔である。)
その後、上座部仏教では、信仰が主に仏陀なので、仏像も釈迦牟尼が主流。が、大乗仏教では仏はたくさんいるので、たくさんの如来、菩薩などが作られている。
そして5世紀、グプラ時代の彫像において仏像の典型が成立した。相好(注:「そうごう」とふりがな付き)というが、三十二相あり、主なものには、「足下安平立相(注:「そくげあんびょうりゅうそう」とふりがな付き)(足の裏が平らで大事に密着する)」、「手足指縵網相(指の間にみずかきがある)」、「頂髪相(頭頂の肉が盛り上がり髪のようである)」、「白毫相(眉間に白毛が生えていて右旋している)(注:」のつけ忘れ)などがある。
さらに仏教が伝わるにつれ、その伝わった国で仏像がつくられていく。その国ごとに少しずつ形式も変化していく。日本の仏像は朝鮮から伝わってきたので中国や朝鮮の表現や形式を受け継いでいる。
そして538年、日本に正式に仏教が入ってくると同時に仏像も入ってきた。
インドでは、石仏や金属仏が主だったが、北の地域には、塑像が多く、中国では石仏、金属仏、泥像、乾漆造、木彫など様々つくられ、朝鮮では金属仏、石仏が多い。
仏像の素材について前に記したが、日本での移り変わりも簡単に記そうと思う。
まず日本は仏像が伝わってすぐは、銅鋳造鍍金、木彫が行われた。そこから七世紀後半から八世紀には乾漆・塑造の技術が全盛期を迎えた。そして九世紀になると木彫が盛んになり、さらに十二世紀後半になると、部品を作って組み立てる寄木造が主流になった。

3.現地で調べたいこと

ここでは見学地ごとに注目すべきポイントを挙げておく。

①法隆寺(エリアF)

(注:研修旅行において、エリア分けが為されていた。エリア分けについて、A:宇治 B:奈良市街地 C:西ノ京 D:生駒 E:郡山 F:斑鳩 G:山の辺 H:長谷 I:橿原・明日香 J:吉野である。)
法隆寺は聖徳太子が608年に建立させたものである。
法隆寺の歴史はここでは述べない。が、本題である仏像を記し、一つ一つ説明しようと思う。
・釈迦三尊像(飛鳥時代)
釈迦三尊とは、釈迦如来と二人の菩薩を併せたものである。ここでの菩薩は、薬王菩薩、薬上菩薩であるらしい。この仏像は釈迦三尊像としては(注:日本において)最古である。金銅仏で(金銅仏とは、銅や錫などの合金、つまりブロンズの鋳物で、鍍金、つまり金メッキしたもの)、作は鞍作鳥。比較的中国の形式に近い。見所は、まず顔である。微笑とは言えないが柔らかい、でも芯のある顔である。次に衣文。衣文とは仏の裳(服のこと)の皺のことである。衣文の複雑かつ洗練された彫り。光背(後ろにある背景、仏の有難い光に見立てている)の中の小さい仏像もしっかり彫られている。
・薬師如来像(飛鳥時代)
7世紀の作品。上の釈迦三尊像と衣文などは似ているが、丸い顔であるなど釈迦三尊像より後に作られたという特徴を持っている。顔は前に記した通り釈迦三尊像と全然違う。
・五重塔北面釈迦涅槃像土(奈良時代)
涅槃とは、釈迦の臨終時に安らかに逝ったことである。
釈迦の仏像は日本では外国に比べて少なく、その中でも特に重要な出征と涅槃の像が海外より圧倒的に少ない。
しかも普通あるはずである沙羅双樹(涅槃時にあった)がないなども重要。まわりの弟子にも注目するべき。
・夢違観音像(白鳳時代)
観音菩薩というのは正しくは観世音菩薩といい、現世でのご利益(七難の苦厄を救う)が得られるので人気である。
その中でもこの像は、祈れば悪夢でも吉夢になるということから夢違観音と呼ばれる。
顔は穏やか、体の曲線はなめらか、いかにも夢見が良くなりそうな仏像である。冠の小さな仏像にも注目である。
・阿弥陀三尊像(鎌倉時代)
阿弥陀三尊とは、阿弥陀如来と観音菩薩、勢至菩薩をセットにしたものである。阿弥陀如来は死後、極楽浄土へ連れていってくれるということで死後救われたい人から人気であった。
この阿弥陀仏は飛鳥時代の様式を模して作ったものだが、顔立ちなどが鎌倉時代の特徴が表れているらしい。
阿弥陀如来が座っている三尊像は珍しい。

②興福寺(エリアB)

藤原氏縁の寺。八世紀建立。
・銅造仏頭(白鳳時代)※見れない可能性有り
元は薬師如来像の頭らしい。
細長い目や美しい弧を描く眉、造立年代(685年)がはっきりしていることなどから、白鳳彫刻の基準作とされる。
・乾漆八部衆立像(奈良時代)※見れない可能性有り
天部八体の像です。
この中に、かの有名な阿修羅像があります。
注目するべきは顔。三面の顔の内の、穏やかな顔が思いつくと思うが、その他の二面の顔も少し感情が違うので注意してみたい。
・木造不空羂索観音菩薩坐像(鎌倉時代)
法隆寺の夢違観音菩薩の所で、「観音菩薩は人気がある」と書いたが、人気なので、たくさんの種類が考えられた。その一つが不空羂索観音。現世で二十種類の御利益がある。
注目ポイントは光背と冠。とても良くつくりこまれている。
・木造十二神将立像(鎌倉時代)
薬師如来が仏敵に襲われないように守護する神。
個性的な動き、顔付き、服装に注目。
・板彫十二神将立像(平安時代)※見れない可能性有り
浮彫という珍しい彫刻。
薄い板なのに生き生きとした姿。

③薬師寺(エリアC)

天武天皇が建て始め、持統天皇の時に698年完成。
・薬師三尊像(白鳳時代)
薬師三尊とは、薬師如来、月光菩薩、日光菩薩をセットにしたものである。
薬師如来には、身心の病を癒す役割がある。
衣文の美しさ、顔の穏やかかつしっかりと参拝客を見つめるまなざしの強さ、光背の美しさ、足の裏の文様、台座の文様、両菩薩の体のくねらせ方の美しさ、衣服が宙に浮いている部分の優雅さ。この仏像は個人的に好きなのでしっかりと見たい。
・聖観音像(白鳳時代)
観音菩薩の基本型。微笑が良い。指の形が美しい。衣類の重なり方も良い。

④新薬師寺(エリアB)

聖武天皇の病気が治るように光明皇后が745年につくらせたもの。
・十二神将立像(奈良時代)
最古の十二神将。動きがある。見るべきは表情と持ち物。そしてポーズ。体の重心を少しずつしている(注:「少しずらしている」の誤字か)のでそこにも注目。
・薬師如来像(奈良時代)
目が特徴的。光背が火の様にうねっている。中顔(注:「円顔」の転記ミスか?)。衣文の彫りも少し浅い。

⑤東大寺(エリアB)

言わずと知れた東大寺。752年大仏完成。
・盧舎那仏像(奈良時代?)
大仏。大きさに驚かされるらしい。光背の仏像が小さくない程である。大きいから美しくないわけではない。個人的には、台座にはなにか文様が刻まれているらしいのでぜひ注目したい。
・金剛力士像(鎌倉時代?)
これも有名な、運慶、快慶が作ったもの。(本当は奈良時代のものもあった。)
服と天衣(宙に浮いているひものようなもの)がすごい躍動感がある。そして筋肉。とても迫力がある。
(東大寺はどこぞの爆弾魔(松永久秀)が焼き打ちした為、昔の物があまり残っていない。)

⑥平等院鳳凰堂(エリアA)

1052年に藤原頼通が建てさせたもの。
・阿弥陀如来像(平安時代)
定朝作。胸や衣文を見てわかる通りさっぱりとした作り。光背がとにかくすごい。見ればわかる。授業でやった飛天もいる(注:現代文でやった気がするがどんな文章だったか忘れてしまった。あれだっけ?薬師寺の水煙見て、凍れる音楽は嘘だ、みたいな日本の哲学者かなんかの文章だっけ?中三のシラバス漁れば見つかるかもしれんが失くした気がする())。なめらかな衣文などの曲線が良い。

⑦奈良国立博物館(エリアB)

日本四大博物館の一つ。(他は、京都国立博物館、九州博物館(注:なぜか九州「国立」博物館が抜けている)、そして東京国立博物館。)
1889年に設立。
・薬師如来坐像(平安時代)
とても穏やかな顔。体つきは良い方。顔は横に広い。台座にも注目。
「※見れない可能性有り」とは……?
興福寺は今国宝館が修理中なので見れない可能性が高いということです。(というか国宝館には入れないが、特別展で見れるかもしれないのでとりあえずこう記しておく。)

4.まとめ

と、見るべき物を羅列した。
そしてもう一点、大事なことがある。
このレポートのテーマである「変化」である。
幸いにもたくさんの寺を廻るので、同じ種類の仏様だが、時代・建立方法が全く違うものも多い。(薬師如来は四、五体も見ることができる。)
これらを現物を見てきたうえで事後レポートで比較してみようと思う。

5.参考文献

「日本仏像事典」真鍋俊照(吉川弘文館)
「仏像入門 そのかたちと由来」町田甲一(創元社)
「日本の仏像を知る事典」松濤杯一郎(日本文芸社)
「魅惑の仏像 阿修羅」山本敦(毎日新聞社)
「魅惑の仏像 釈迦三尊」山本敦(毎日新聞社)
「魅惑の仏像 薬師如来」山本敦(毎日新聞社)
「魅惑の仏像 十二神将」山本敦(毎日新聞社)
「魅惑の仏像 阿弥陀如来」山本敦(毎日新聞社)
「法隆寺」法隆寺(便利堂)
「釈迦 - Wikipedia」(注:この頃の俺はまだレポートの参考文献にWikipediaを使うとか言うことのアンチをまだやってなかったのか、驚きである。まぁ、そもそも書名を『』で囲ってないしな(クイ研に入る前だったしな))
「大乗仏教 - Wikpedia」
「上座部仏教 - Wikipedia」
「法隆寺金堂釈迦三尊像 - Wikipedia」
「法隆寺五重塔内部の国宝はすごい!塑造塔本四面具」(注:頼むから書籍なのかwebページなのか何かのパンフレットなのかちゃんと記載してくれ)
「法隆寺の仏様 - Wikipedia」
「国宝」「重要文化財」「銅造仏頭」
「国宝」「重要文化財」「板彫十二神立像」
「国宝」「重要文化財」「木造不空羂索観音菩薩坐像」
「新薬師寺」薬師師如来(注:「薬師如来」の誤字か???)
「薬師寺 東院堂の仏像」
「東大寺盧遮那仏像」
「奈良県・東大寺西大門の金剛力士像「歴史・大きさ(高さ)、作者(作った人)」(写真、画像付き)(注:これはいったいどういうこと???まず鍵カッコが閉じられてないし。)
「国宝|薬師如来坐像|奈良国立博物館」

事後レポート

1.現地での調査結果

さて、研修旅行から帰ってきたのでまとめたいと思う。の前に2つ記しておく。
まず、仏像はほとんど撮影禁止なので、写真などは貼っていません。
次に、興福寺の国宝館は、確かに修理中で一部見れないものもあったが、「阿修羅 天平乾漆群像展」というものが代わりに開催されていた。なので阿修羅像などの八部衆は見ることが出来た。しかし、板彫十二神将は見ることが出来なかった。
では、とりあえずは行った順番にまとめたいと思う。

⑥平等院(エリアA)

まず、研修一日目に行ったのは平等院である。
ここで特筆すべき場所は二つ、鳳凰堂と鳳翔館(博物館)である。
まず、雲中供養菩薩。52体全て(鳳凰堂と鳳翔館にそれぞれ26基ずつ)見てきた。特に鳳翔館のものはガラス越しにだが間近で見られた。
平安時代の物なので、彫りが浅め。それでバランスが少しおかしい気がした。たぶんそれは、本来壁にかかげるべきものを同じ目線(注:「同じ高さから」という意味)で見たからだと思う。
配置(鳳凰堂にあるもの)を見ると、なにか圧倒されるものがある。壁の一区間の中央を向いているので、そのバランスが良いのだろう。
そして阿弥陀如来。これは、一時間に数回行われる、鳳凰堂の内部に入れるツアーのようなものに参加すると見ることができる。ので一時間待ちだったが参加した。
雲中供養菩薩がまわりを囲った状態にいたのが、阿弥陀如来。定朝作とあって少し彫りが浅い。(相対的に見て)光背はたくさんの飛天がいて、かつ光背の火のような緻密かつ大胆なものになっている。仏像のほうは、まぶしいとまではいかないものの、金ピカである。衣文は地面に対して平行、または垂直である。顔ははっきりとした感情を表してはおらず、目なども細長くなっている。

②興福寺(エリアB)

次に向かったのは、興福寺。
ここで特筆すべき場所は二つ、東金堂と仮講堂(五重塔は外観は美しいけれどこのレポートには関係ない。今年は仮講堂だが、先に記したとおり、あくまで国宝館が休館中なので、今回は仮講堂なのである。)
東金堂では薬師如来と日光・月光菩薩と四天王と十二神将、そして仏頭を取り上げる。(仏頭は国宝館から移してきたのだろう。)
薬師如来は室町時代の作品。横に大きいという印象。光背はどちらかといえば丁寧に彫られた感じがする。
日光・月光菩薩(月光菩薩は「がっこうぼさつ」と読むらしいです。恥ずかしい……。)は白鳳時代の作品とあって優雅。衣文のねじれ方がなんとも美しい。顔もパリッとしている。
四天王は平安時代のもの。少し太っている印象を受ける。彫りは浅く、でも細かく彫ってある。
十二神将は鎌倉時代のもの。少し色が残っている。そこまで筋肉もりもりではない。
そして、仏頭。近くで大きな顔を見たからわかるが、とてもなめらか。鼻は長く、ほうれい線のしわの部分などすごい。
そして仮講堂では、「阿修羅 天平乾漆群像展」をやっていた。ここでは、阿弥陀如来、阿修羅に触れる。(十人弟子などはスルー。)
阿弥陀如来は鎌倉時代の作品。金ピカである。光背はけっこう削られていて、後ろにできる影がすごい幻想的。衣文は結構しわが寄ってしまっているものが多い。
そしてみんな大好き阿修羅。乾漆八部衆立像のなかの1つなのだが、その中でも異彩をはなっている。7体とも鎧のようなものを着けているが、阿修羅だけ薄着かつ弱そうな感じがする。腕も細いが、バランスがとられている。裳のしわが繊細。

①法隆寺(エリアF)

研修2日目に行ったのは、法隆寺と東大寺だ。
法隆寺はたくさんの場所に行ったので仏像ごとに記す。
釈迦三尊像は飛鳥時代の作品。金堂に鎮座。顔などは縦長。どちらかといえば角ばっているイメージはあるが、顔はなめらかかつ穏やか。光背は少し削って文様を付けた程度。ただし衣文などの彫理は深い。
薬師如来像は白鳳時代のもの。これも釈迦三尊像と同じように角々はしているが、そこまででもない。釈迦三尊像に似た作り。
阿弥陀如来像は鎌倉時代の作品。一応飛鳥時代に作られ盗難されたものの復元なので飛鳥の古様式を踏襲しているが、胸の部分などの彫りから見てとれるように鎌倉時代の写実的な様式も感じられる。
四天王像は飛鳥時代の作品。他の時代のもの(注:恐らく「他の時代の四天王像」という意味)と違い、静かな立ち方をしている。これは日本最古の四天王像らしい。全体的に遠くにある+暗い+柵の中にあるだったので、あまりよく見えなかった。
次に大宝蔵院に行った。ここで取り上げるのは、夢違観音についてである。(玉虫厨子なども紹介したかったが、ここに関係ないので記さない。)(白鳳時代の作品。)
まず、今まで見てきた仏像より小さい。(86.9cm)そして、腹が少し出ているが、顔はとても穏やか。衣文はそこまで派手でない。なんというか、どちらかといえば人間に近い印象を受けた。
そして、大宝蔵院に隣接している百済観音堂では、百済観音を見た。(飛鳥時代の作品。)
とにかく細長い。とてもなめらかな曲線。衣文は浅い。光背はどちらかといえば単純なつくり。人間離れしているので如来らしいが菩薩。右手を前に出すポージングがとても良い。

⑤東大寺(エリアB)

午後、東大寺に行った。ここでは、大仏殿と東大寺ミュージアムについて述べようと思う。
大仏殿ではまず慮舎那仏(注:「盧舎那仏」を誤字している)を見た。「大」仏とだけあって大きい。体は鎌倉時代、頭は江戸時代のものだが、バランスは良い。衣文はしつこくない彫り。手などは写実的。光背はでかいのでとても豪華に見える。
脇侍には、虚空蔵菩薩坐像と如意輪観音座像がいたが、くわしいことは割愛。ただ、これも結構大きく、本尊でもおかしくない迫力だった。光背から棒のようなものが飛び出ているのも豪華。
二天像は江戸時代の作品。広目天と多聞天である。
二つとも装飾品が多い。顔などは深く、服はたくさん彫られている。なかでも、前についているもの顔の部分は薄いが迫力がある。(注:俺も文意が取れません泣)
東大寺ミュージアムでは、たくさんの彫刻を見た。
まず、千手観音。身長が高いのと合わさって腕42本にとても迫力がある。平安時代のものなので、顔付きにすこしなったやわらかい線。(注:文意がわかりません泣)衣文はなめらかかつ写実的。
光背は幾何学的文様。
日光・月光菩薩は奈良時代の作品。
彫り方は2つともちょっと違う。顔はあまり起伏がない。色はどちらかといえば薄かった(当時は彩色されていたらしい)ので、色の印象が強い。衣文はそこまで深くない。
誕生釈迦仏立像は奈良時代のもの。小さいので、彫りも浅い。が、螺髪は細かい。小さいので体が所々デフォルメされている。
他にも二天像や釈迦如来や阿弥陀如来などがあったが割愛。

③薬師寺(エリアC)

三日目は薬師寺・奈良国立博物館・新薬師寺に行った。
薬師寺では主に2つ、薬師三尊像と、聖観世音菩薩像を説明する。
薬師三尊像は白鳳時代の作品。三尊像を見た時には、バランスがとれている、いや、調和がとれていて美しい、と感じた。彫はそれほど深くない。とてつもなくなめらか。日光・月光菩薩の胸元にある飾りはとても細かい。肉感はそれほどはない。手の形が美しい。薬師如来は太り過ぎもせず、良い具合の体つき。胸筋もすこし出ているくらい。三尊の光背は削りは深くないが細かい。
この仏像は、調和の取れているの一言に尽きる。
なお、薬師如来の台座も細かい文様が刻まれている。
そして、聖観世音菩薩像。奈良研修で見てきた中で一番美しいと思った。自分の好きな仏像。
顔、深すぎず、浅すぎず。感情、出すぎず、無さすぎず。衣文の彫り、深すぎず、浅すぎず。首飾りの繊細さ。衣類の宙に浮いてる部分のなめらかさ。光背の主張しすぎていない、けど神々しさ(?(注:「仏像なのに神?」っていうボケだと思うけどわかりにくいね))を出す。など、完璧な仏像。手とか本当に美しい。手だけでも飾れる。
十人弟子の像などは割愛。

⑦奈良国立博物館(エリアB)

仏像が多い。それで、鎌倉時代以降の作品も多い。
色々ありすぎてどれを書けばよいのかわからないので、2で色々記す。

④新薬師寺(エリアB)

最後は新薬師寺。小さな寺だが、たくさん仏像があった。
薬師如来坐像は奈良時代の作品。顔は結構深い。衣文は細かく彫られていて、重なり方などが少し緻密。光背はたくさん彫られていて、装飾が多い。

十二神将は奈良時代の作品。奈良時代の作品にしては動きがみられる。起伏はそこまで大きくはないが、顔や鎧と足の間などは大胆に彫られていた。

2.考察、結論

事前レポート13ページ+事後レポート6ページの計19ページの内容を費やしてようやくこのページに辿り着いた。それでは、いよいよ比較をしてみようと思う。


(注:レポートに手書きで作った表をExcelでなんか作ったやつ。そして「十二神将」を「十二神神」と書いていたのはサイレント修正)

あら?意外に少ない?ちょっと少ないので奈良国立博物館所蔵も加えて表にしてみました。
まず縦列を見る。
奈良と平安前に注目。
1に書いたとおり、如来はどちらかといえば、人間離れした表情、が、菩薩などはバリエーションが増え、特に観音などは十仏十色となる。
四天王や十二神将になってくると、迫力があり、鎧を着けているものが多くなる。
次に横列を見る。(注:横行では?)
阿弥陀如来を例にすると、初期は薬師如来などの顔に近かったが、平安頃から顔が少しふくれて人間らしくなり、鎌倉になると本当の人に近付く。
結論として、まず仏像の種類の違いは次の通り。
釈迦如来…資料は少ないが、人間らしい仏像。
阿弥陀如来…服などは質素。形は大体同じ。
薬師如来…持ち物や光背が少しバラつきがある。形は大体同じ。阿弥陀如来に造形は似ている。
観音菩薩…様々な種類がある。装飾品は豪華。顔付きはキリッとしているものが多い。
日光・月光菩薩…胸飾りと冠以外は結構質素。単純だけど薬師如来と調和するようにできているものが多い。
十二神将…動きがあるものが多い。どちらかと言えばなめらかで細かく、かつ大胆なものが多い。
そして、時代による変化は次のとおり。
飛鳥時代……この後の時代とは全然違う形式のものが多い。朝鮮や中国の影響が強い。
白鳳時代…進化していって、少し写実的になる。ここで日本らしい仏像の「型」ができる。個人的には一番好きな仏像の時代区分。
奈良時代…たくさん仏像が造られた時代。型にのっとっている。仏像といえばこの時代のものを代表と思ってもよい。
平安時代前期…少し発展していってより写実的になる。
平安時代後期…少しやわらかみを帯び、人間らしい彫り方となる。少しふっくらとしたものもある。
鎌倉時代…一気に写実的になり、迫力も出る。彫りが深くなる。
室町時代以降…より写実的・深彫の道を辿るものと、原点回帰し、なめらかなものを造るものに分かれてそれぞれ進化していく。

3.感想、今後の課題

長いレポートになってしまった。(紀行文のようだ。)
しかも、最初に記したとおり、寺での撮影はほとんど禁止されていたので文字だらけ、というか文字しかない。
さて、今回の研修では、なんと6つの寺と1つの博物館に行くことができた。(神社にも行ったが、これには関係ないので記さないが。(注:春日大社のこと))こんなに寺を廻り、百以上の仏像を見れたことは、とても興味深い体験だった。
さて、今後の課題としては、表をつくったのはいいが、それに対する考察が少しかできなったので(注:少し「しか」の誤字)mもっとじっくりと考察・比較したかった。
まとめは以上だが、最後に二つ。
ここまで事前レポート・事後レポート合わせて23枚、1枚750文字書けるのですなわち、750×23で17250文字書いた計算になる。空白があるのでそこまで多くないにしろ、大体14000字は書いていることになる。(注:実際はこのnote上では約12000文字なので、注釈除くと多分11000文字となる。)これは中学校3年間のレポートでの最高字数となる。(注:毎年研修旅行があり、それらのレポートでも結構力を入れていた。)
しかも、このレポートは下書きを書いてから新しいレポート用紙に一からか書くのですなわち、28000文字、二万八千字も書いていることになる。(注:正しくは22000文字ぐらいかと。ってかなんでわざわざ漢字で書いて強調した……?)
何が言いたいかというと、ただ一つ。パソコンで書いた方が効率がいいし、早く終わる。
なので、来年からは高校に多分上がれるだろうし(注:中高一貫校なので。)、パソコンで打ち込もうということを宣言する。
そして最後に、「寺を廻り、仏像を見たい」という自の意見(注:「自分の意見」の誤字。多分「自」のところで改行だったので、やらかしているのだと思う。)を快く聞いてくれた班員4人を始め、学校や現地でお世話になった方々、そして最後まで汚い字で書いてあるこのとてつもなく長いレポート(注:確かそれぞれ事前レポートで3000文字以上、事後レポートで1000文字みたいな宿題だった気がする)を読んでくださった読書(注:読者だね。疲れたんだね)へ、ここにお礼を書かせて頂きたいと思う。(注:敬語が変なのことは無視)
本当にありがとうございました。

4.参考文献・HP

「平等院」
「阿修羅 天平乾漆群像展」
「法隆寺略縁起」
「東大寺ミュージアム」
「『東大寺の歴史と美術』 展示目録および音声ガイド案内」
「薬師寺」
「奈良国立博物館」
「なら仏像館」
「新薬師寺」
(以上ここまでがパンフレット)
「収蔵品データベース|奈良国立博物館」(注:HPだと思われる)

終わりに

長くなってしまった。
まぁ、まとめ学習としてはよくできているのではと思う。
そして、中3の頃から文章の書き方とか砕け具合とか大体変わってないなぁ、と思いました。
けど今読み返すと、文章の内容は覚えてないのに注釈をつけるべきところが多すぎて本当に驚きました。うーん……。
ちなみに、この後高校ではパソコンでレポートを書くようになりました。
まぁ、内容は大体正確ではあると思う、が、まぁ、話85%ぐらいで読んでみてください。何か困ったら参考文献の「~事典」ってのを探して読むとより確実となると思います。
まぁ、仏像について詳しくなりたい人(特に多分俺の上野ツアーに参加する人)は適当に読み飛ばして参考にしてみてください。
そして、このnoteを待っていた某FFさん、旅にお役立てください。