「こころとからだ」

皆さんは宝箱を持っているだろうか。
私は二つ持っている。とはいってもそれは箱ではなく二つのファイルである。
私は中高一貫の自称「自称進学校」(つまり進学校)に行っていたのだが、教材は基本的に教科書を用いない。大体先生お手製のプリントが用いられる。化学などは先生が作ったプリントのみを用いて結構先進的なことをやっていた(らしい(普通の高校ってIUPAC命名法やらないん?))。
んで自慢がしたいのではなく、要は授業は先生の個性の現れたプリントによるものが多かったということである。
特に中高一貫校なんて中学校のうちはほぼ遊びのようなもので、現代文は教科書なんぞ用いず、読む題材の文章でさえ全部印刷して配られ、自分で折って冊子にしていた。
また話が逸れた。なのでそういうプリントの中で特に好きなものを入れるファイルと、先生が出した論述の問題(論述というかなんか書け、みたいなやつ)で個人的になんかよく書けたと思うやつを入れるファイルがある。この二つが宝物箱である。(ちなみに好きなプリント入れるファイルはただのファイルというよりもはやバッグみたいなやつ(セクションファイルっていうやつ?)なので好きなプリント以外にも、描いてもらった絵や手紙なども保管されている。)

さて、論述のファイルにも様々あって、主に現代文と小論文用の授業(「国語表現」、みたいな名前だったはず。高1の授業なので小論文使わないような人でも取らされた。し、やっていることは小論文というより遊びだった。)で書いたものが多い。現代文は設問に対してお気持ち表明するやつが多く、小論文用の授業だと俳句とか短歌とかも作ったりした。
ちなみに、現代文の授業で面白かったのは、芥川龍之介の『鼻』の続きを創作しよう、ってやつで、提出したやつを全部印刷してクラスに配り、最優秀作品を決める、というイベントがあったが、他の人が数行書いたりしているだけだったのに、自分だけ数十行書いたので、その分量のインパクトで優勝したことがある。ちな、これは自慢。
また話題が逸れてしまった。それで今回は中2の時に書いた「こころとからだ」ってものをnoteに書き写そうと思う。多分今までの傾向的にみんなが読みたいのは小説でも解説文でもなくエッセーだと思うので。しかし「書くことがない。」今の俺には書くことができない。なので過去の俺を出汁に使おうと思う。
どんな文章を読んだか忘れてしまったが、そういうの関係なしに「こころとからだ」に関してなんでもいいから何か書けばよいという課題だった。注釈に「文章で(詩など創作可)」って書いてあったし、裏側には四コマ漫画で描ける欄もあった。
まあなので好き勝手書きました。
誤字していようが関係なしにそのまま写します(やばい時は注釈つけます)。
それではどうぞ。

こころとからだ ☆文章で(詩など創作可)
二組○○番 氏名○○○○○○ (注:個人情報しかなかったので伏字にしました。)
「我思うゆえに我あり」これは精神があることが重要というものだが、本当に切り離せるのだろうか?確かに切り離して考えた方がいろいろなことは考えやすい。しかし、あくまで精神、(ここでは考える、思うことについて考える。)は、体の中の電気が通じることで成り立っている。つまり人間の意識は、なにか物があるのではなく、動きによって成り立っているのがわかる。例を挙げると、パソコンである。パソコンというのは、あの機械の中にマウスなどで入力がなされ、内部で演算され、ディスプレイなどに出力される。あくまでその通り道を電気が通ったのが機械のしたことであり、ディスプレイに写ったのは結果でしかない。
そのパソコンは同じ場面に行く(例えば○○ホームページなど(注:中学の名前が出ていたので伏字にしました))のに別の種類のパソコンでは行く過程は違うはずである。
人間も同様に同じ思考をしても過程が少し変わってしまう。
つまり精神と身体というのはあくまで同列のものではない。身体の中に精神がある。ハードが狂うとソフトも正常に動かない。ソフトでハードを動かせる。
精神を分けたいならば三島由紀夫のように腹を裂いて魂を出すしかないし、身体を別のものにするしかない。エクトプラズマ。
ただ、大まかに考えるのならば切って考えてもよい。(古典力学と量子力学の関係と同じ)

中学2年生の時の文章

「我思うゆえに我あり」の解釈は間違っています(哲学通論の某hgk先生に「あなたの理解は間違っています」って言われそう)。
あといくつか先生に線ひかれてコメントされているところがあり、そのうちの一つに「体の中の電気が通じることで成り立っている」に線が引かれ、「シナプス(情報伝達)ね」って書かれてました。
まあこんな感じで割と細かいところ見ると結構胡散臭かったり間違った知識振りかざしているけどいいこと書いていると思います。
先生のコメントにもあったけど、ハードとソフトのたとえのところに「このたとえは秀逸」って書かれてました。やったね。

あと言っていることが現在とほとんど変わっていないですね。入力と出力とか完全に哲学的ゾンビやん(実際は「動き」があるし意識の話をしているので哲学的ゾンビを否定しているといえる……?)。
ただ、魂を出すってどういう意味で書いたんやろ。ソフトのパッケージだけ・プログラムだけを抽出するってことなんかなぁ。けどそれだと「動き」がないしなぁ。

まあ昔から文章書くのが好きだったんだなぁと思いました。noteにかけそうな話やし。

好評であれば、また「宝箱」のなかから適当な奴載せます。