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「花のように」第七章 花のように

第七章 花のように
 
      一

「なんだよ」
 取調室に通された吉田が紘彬を睨みながら言った。
 紘彬はスマホを机の上に置くと、
「これ、さっき解約の手続きしただろ」
 と言った。

「それが犯罪なのかよ」
「解約は犯罪じゃないけど、このスマホは犯罪に使われたものだ」
 吉田はスマホに目を落としてから顔を上げると、
「こんなスマホ、知らないね」
 とぶっきらぼうに答えた。

「知らないスマホの解約手続きしたのか? 月々の料金まで払ってたのに?」
「だから知らないって言ってるだろ! お前、ダチを疑うのかよ!」
「ダチかどうかは関係ない。これは仕事だ」
 紘彬が無表情で答えた。

「やっぱ、お前、サイッテーだな」
 紘彬は何も言わなかった。

 如月も黙って吉田を見ていた。
 取調室の中は沈黙に包まれた。

「永山啓治を知っているな」
 佐久が訊ねた。

 吉田とは別の取調室で、佐久は石川の向かいに座っていた。
 上田も佐久の斜め後ろに立っている。

「知るか」
 石川はそっぽを向いた。
「永山は殺されたぞ」
 佐久がそう言うと、石川はぎょっとしたように振り返った。
 まだ殺されたと決まったわけではないが、石川の口を割らせるためにそう言ったのだ。

「口封じだろうな。心当たりがあるんじゃないか?」
 石川は口をつぐんだまま俯いた。
「岡本洋介って男も殺されてた」
 顔を上げた石川の視線が揺れる。

「お前はこの後、別の容疑で再逮捕される。一旦釈放されてからな。しかし、再逮捕の場所ってのは指定されてない。時間もな」
 佐久が石川の顔を覗き込んだ。
「歌舞伎町で釈放してやろうか。何時間後かに俺達が再逮捕するまで生きてられるかな」
 石川の顔色が真っ青になった。

「で、薬物の仕入れ先は?」
 石川は青い顔で震えながらも喋ろうとしなかった。
「じゃ、これから歌舞伎町に行くとするか」
 佐久が立ち上がろうとした。

「ま、待て!」
「仕入れ先は?」
「よ、吉田ってヤツだ。下の名前は知らない」
「どうやって連絡取ってた?」
「スマホに番号が入ってる」
 石川が答える。

「吉田とはどうやって知り合った?」
「永山がヤク売ってるの見て跡をつけたんだ。それで、ヤクを永山に渡してるヤツを見つけて、売り込んだ」
 一旦口を割ると、後はするすると答えた。

「なんて?」
「夜間の宅配じゃ大人にしか売れないだろって。俺にやらせてくれれば高校生にも売れるって」
「お前、高校生に売ってたのか!」
 佐久が身を乗り出した。

「お、弟が売ってたんだよ!」
「やらせてたんだろ!」
 佐久が机を叩いた。
「お前、サイテーのクズだな」
 佐久が吐き捨てるように言った。

「高校生にどれくらい売った」
「多分、そんなには……」
 石川の声が小さくなった。
「弟にどれだけ渡したか覚えてるはずだ」
 佐久が問い詰める。

「五十人分渡したけど、高校生だからあまり高く出来ないとか言って十人分くらいの金しかよこさなかったんだ。多分、自分で使ってたんだと……」
「そんなことして、売人がお前じゃなければ殺されてるところだぞ」
 結局Heの副作用で死んでしまったが。
「弟にヤクを売らせる兄に、売り物のヤクを自分で使う弟か。似た者兄弟だな」
 上田が呆れたように言った。

 吉田は静寂に耐えられなくなったのか、
「……名義だけ知り合いに貸してたんだよ」
 と口を開いた。

「そいつ、女ごとに違うスマホ使ってて、女と別れると解約してんだよ。夕辺そいつから連絡があって、女と別れたからすぐに解約手続きしてくれって言われて、さっき行ったんだ」

 話によると、あいこ用とか、よしこ用とか、りえこ用とかに分けていたらしい。
 しかし、一人で契約できるのは五回線まで。主回線は自分用に必要だ。だから、五人目の女が出来たとき名義を貸してくれと言われたらしい。

「それなら別のキャリアで契約すればいいだけだろ」
 紘彬の指摘に吉田は、あっと驚いた顔をした。気付いてなかったらしい。
「料金は?」
「振り込みにしてあって、うちに振込用紙が来ると、そいつに渡してたんだよ」
「そいつの名前は?」
「俺はお前と違ってダチは売らないんだよ!」
 吉田は苛立たしげに机を叩いた。

 紘彬がいると、まともに話せそうにないと見て取った如月が、
「桜井警部補」
 目配せした。
「分かった。他のヤツ呼んでくる」
 紘彬は取調室を出ると、上田を呼んだ。

「吉田さん、桜井警部補は仕事だって言ってましたけど、あれでも随分遠慮してたんですよ。他の人が相手の時はもっと不愉快なことも言ってるんです」
 吉田は、けっと言ってそっぽを向いた。
「俺は桜井警部補じゃねぇから遠慮はしねぇぞ」
 上田が吉田の前に座りながら言った。

「ふん、権力を盾にしないと威張れないクセに」
「子供を殺したお前よりはマシだ」
「子供!?」
 吉田がぎょっとした顔で上田を見た。

「このスマホはHeというドラッグの売買に使われてました。そのドラッグで高校生が死にました」
「まさか」
 吉田が笑おうとして顔を引きつらせた。

「Heを使ってると、死ぬ間際に凶暴になるんです。その高校生も死ぬ間際にクラスメイトを道連れにしました」
「それに別のHe中毒者は幼児二人と女性三人を殺した」
 上田が言った。
「Heもですけど、そのスマホの持ち主には売人二人を殺した容疑もかかってます」
「よほど運が良くないと死刑だぞ。ま、子供にヤク売って殺すようなヤツは死んだ方が世の為だろうがな」
 吉田の顔色が徐々に青ざめてきた。

「ダチは売らないって言ってましたけど、友達だからこそ、悪いことをしてたら罪を償わせて、更正させなければいけないんじゃないですか?」
「更正しても無駄だろ。死刑だからな」
 上田がせせら笑った。

「それに、ダチだと思ってんのはお前だけじゃねぇの? 今、売人の一人に話を聞いてたが、そいつ吉田って名乗ってたってよ」
「嘘だ!」
 吉田が叫んだ。
「嘘じゃねぇよ」
「名前を言ってください。でないと、スマホの持ち主ではないことを証明出来ても共犯と言うことになってしまいますよ」
「ちなみに共犯も死刑な」
 上田が言い放った。

 机の上で握られている吉田の手が震えていた。唇を噛んで机を凝視している。

 紘彬に、ダチは売らないといった手前、言いづらいのかもしれない。

 吉田さんの友達か……。
 確か、あの人って製薬会社勤めとか言ってたっけ。
 それに、さっき……。

「吉田さん、名前は言わなくていいです」
 吉田が驚いたように顔を上げた。
「自分が名前を言いますから、その人だったら頷いてください。いいですか?」
 吉田は俯いた。

 取調室を出た如月は、刑事部屋の自分の席に座っている紘彬の隣に立った。

「奥野が、あ、奥野さんが……」
 如月は奥野が紘彬の友人と言うことを思い出して慌てて言い直した。
「呼び捨てでいいよ。あいつで間違いないし」
「え?」
「今、家から高校の卒業アルバム持ってきて石川に見せた」
 石川は吉田ではなく奥野を指したという。

       二

 紘彬達は奥野の家と会社に、手分けして家宅捜索に向かった。

 奥野の家は代々木の閑静な住宅街に建つマンションの一室だった。
 書類やパソコンなどを段ボールに詰めて運び出すのを、近所の人達がひそひそと噂話をしながら見ていた。
 奥野は会社にも家にもいなかったため、すぐに緊急手配にかけられた。

 奥野のパソコンの中身は一見普通だったが、如月が隠しファイルを見つけてロックを外して中を見ると、Heを始めとした違法なドラッグの化学組成式が書かれたファイルがいくつもあった。

 紘彬はプリントアウトされた科学組成式に目を通した。
 如月はHe以外の科学組成式のドラッグが市場に出回っていないか照会していた。

「どうやら、He以外のドラッグの科学組成式はこれから作る予定だったようですね」
 如月がファイルを見ながら言った。

 隠しファイルにあったメールに、Heが規制されたという情報があった。
 それと、違法ドラッグを作る材料とみられる薬品を注文したメールもあった。
 紘彬はHeの材料が書かれたファイルと発注をかけていた薬品を見比べた。
 Heには使われてない薬品が注文されているところを見ると如月の言う通りのようだ。

「さて、それじゃ」
 と言って団藤がホワイトボードの前に立った。
 家宅捜索で押収したものは解析班に回された。

「奥野の行方を追うのは上田と佐久、飯田と俺。桜井と如月は引き続き麻生真理の事件に当たってくれ。ところで桜井、奥野の逃亡先に心当たりは?」
「ない。それより、まどかちゃん、Heのことは? 血刀男もうちの事件だろ」
「殺人事件の方は被疑者死亡で書類送検されることになった。Heに関しては警視庁の麻薬捜査課が担当することになった」
 団藤が答える。

「なんか麻薬捜査課に美味しいとこだけ持ってかれた感じだな」
 紘彬がぼやいた。
「もう歌舞伎町に行く必要がなくなったってことですよ」
「麻薬捜査課GJグッジョブ!」
 紘彬が親指を立てた。
 如月は苦笑した。

 団藤達は一通り打合せをすると、奥野の行方を追って出ていった。

「さて、どこから手を付ける?」
 刑事部屋で紘彬は椅子に反対に座って如月と向き合った。
 二人とも、それぞれ手に持ったファイルを見ていた。
「そうですねぇ」
 如月は、麻生真理に貢いでいた男のファイルを一つ一つ見ていった。

 紘彬は鑑識から上がってきた報告書を見ていたが、
「ちょっと、鑑識行ってこようぜ」
 と言って立ち上がった。
 如月が後に続く。

 紘彬は鑑識の八島に麻生真理を殴るのに使った花瓶の破片の写真を見せてくれるように頼んだ。

「これと同じヤツある?」
 紘彬が訊ねると、鑑識の八島が同じ形の花瓶を見せてくれた。
「頭部の模型ある? ほら、殴ると血が出るヤツ」
「そこに……」
 八島が模型を指した。

「指紋の付き方からいくと、こうやって握って……」

 紘彬は指紋が黒く浮き上がっている写真を見ながら、細長くなっている花瓶の首部分を右手で掴んだ。

 あっ!

 紘彬が何をしようとしているか気付いた如月が、
「桜井さん、待っ……」
 言い終えるより先に、力一杯模型に叩き付けられた花瓶の破片と偽物の血が、鑑識部屋に飛び散った。

「何やってんだ、あんた!」
 八島が驚愕して叫んだ。

 如月は額を押さえた。
 紘彬はその場にしゃがみ込むと、破片をより分け始めた。

 そして、分けた破片と鑑識報告書を見比べながら、今度は写真を分け始めた。
 その後ろでは、八島が喚いていたが、紘彬には聞こえていないようだった。

 如月は眩暈めまいを覚えて壁に手をついた。

 なんで報告書や始末書書くの嫌がってるのにこう言うことするかなぁ……。

「この写真に写ってるこの破片の、この微かに付いてる血液、犯人のものかもしれないから、もう一度DNA検査してくれる?」
「はぁ」
 八島は困惑したような呆れたような複雑な表情で紘彬を見上げた。

「あ、ここは俺達が掃除するから。それと、花瓶の弁償が必要なら俺の給料から引くように言っといて」
「掃除はこっちで手配しておきますから」
 八島はそう言うと頭を振りながら鑑識の奥の部屋へ戻っていった。

「検査結果を待つとして、後はどうしようか」
「まず始末書書くのが先ですよ」
「やっぱ書かなきゃダメかぁ」
「当然です」

 如月は、渋々といった様子で刑事部屋へ戻っていく紘彬の後に続いた。
 既に鑑識からの報告が届いており、始末書を書く前に課長にがっちりと叱られた。

 翌日の夕方、奥野捜索に出ていた団藤達が、情報交換のために一旦署に帰ってきて会議をしていた。

「奥野の潜伏先の手がかりだが……」
 団藤が言いかけたとき、電話が鳴った。
 如月が受話器を取った。

「紘一君の高校の前で生徒が刺されたそうです」
 如月がそう言った瞬間、紘彬は飛び出していた。
「桜井さん!」
 如月も桜井を追って飛び出した。
「桜井! 如月!」

 高校は、警察署を出て目の前の明治通りを渋谷方面に行けばすぐである。

 紘彬達が学校の前に着くのと、救急車が渋谷方面に走っていくのはほぼ同時だった。
 校門の前は高校生達でごった返している。

 下校時刻と言うこともあり、生徒達は皆鞄を持っていた。部活中に見物に出てきたのか、体操服姿のものも散見された。

「兄ちゃん、如月さん」
 人混みの外にいた紘一が声をかけた。帰る途中だったのか、鞄を持っていた。
「今、メールしたとこだよ」
「紘一、何があった」
 紘彬は紘一のそばに向かった。

「内藤って言うクラスメイトが刺されたんだ」
「内藤君が!? 無事なの!?」
「分かんない。俺も友達から話聞いて今ここに来たところだから」
「なら、お前は何も見てないんだな?」
 紘彬が訊ねた。

「うん」
 紘一が頷く。
「じゃ、家に帰ってろ。詳しいことが分かったら連絡するから」
「分かった」
「よし、聞き込みだ」

 紘彬と如月は二手に分かれて聞き込みを開始した。
 遅れてやってきた団藤達や、少年課の刑事達も聞き込みを始めた。

 しかし、皆一様に、帽子を目深に被り、黒縁眼鏡をかけ、白いマスクをしていて、顔が見えなかったというばかりだった。
 その上、共通しているのはそこまでだった。服装はジーンズに紫のスカジャン、と言うものもいれば緑のジャケット、と言う者もいて、目撃証言の宛てにならなさを今更ながら痛感させられた。
 とはいえ、どんないい加減な目撃証言でも手がかりは手がかりである。

「首に大きな黒子?」
 如月は女子生徒に聞き返した。
「ここのところに。マスクに隠れてなかったから見えたんです」
 女子生徒が右の耳の二センチほど下を指した。

 如月は礼を言うと、女子生徒の名前と連絡先を控えてから、少年課の刑事に話しかけた。
 先ほど病院へ行った刑事とスマホで話していたから、内藤から聞いた内容も知っているだろうと思ったのだ。

「あの、内藤君は刺した男のこと……」
「男だって証言があったのか!?」
「いえ、そう言うわけでは……」
 刑事は、余計な先入観は捜査を見誤る、とか何とかひとしきりぶった。

 ようやく刑事が話し終えたところで、
「内藤君は自分を刺した人間をなんて言ってるんですか?」
 と訊ねた。

「顔は分からなかったそうだ」
「じゃあ、誰に刺されたかは……」
「全く分からないらしい」
 如月は礼を言うと、団藤の元へ行った。

「団藤警部補、自分も病院に行って内藤君の話を聞きたいのですが」
「もう向こうには少年課の刑事がいるから嫌な顔されると思うぞ」
「確認したいことがあるんです」
「分かった。桜井、一緒に行け」
 団藤はそう言うと紘彬に声をかけた。
 二人は病院へ向かった。

「なんか分かったのか?」
「聞いてみないと何とも……」
 如月は言葉を濁した。
「そうか。ま、いいや。早く行こうぜ。紘一も連絡待ってるだろうし」

 二人は歌舞伎町にある病院へ向かった。

       三

 紘彬と如月は十三階でエレベーターを降りた。
 目の前にはナースステーションがあり、その両脇から通路が奥へ向かって延びていた。
 ナースステーションと通路を挟んだ向かい側に談話室のようなものがあった。冷蔵庫も置いてある。
 看護師の一人に内藤の病室を聞くと談話室の隣だった。

「やっぱ、十三階だから部屋番号が一三〇一号室とかなんだな」
「そうですね」
「ここ、整形外科の階だろ。大手術とか受ける前や後に十三の着く部屋番号なんて嫌だろうな」
「桜井さん」
 如月が声を潜めてたしなめた。

 廊下を挟んだ反対側に病室が並んでいる。
 通路を挟んで病室の向かい側に車いす用トイレの大きな扉が三つ並んでおり、その先に洗浄室があり、その向こうに普通のトイレがあった。トイレの出入り口は患者が出入りしやすいようにドアではなく、カーテンが掛けられていた。
 病室のドアはスライド式でどこも開きっぱなしになっている。

「あ、ここです。失礼します」
 如月が声をかけて中に入った。

 中は二人部屋だったが、廊下側のベッドは空いていた。
 少年課の刑事は見当たらなかった。一旦帰ったのかもしれない。

「すみません」
 そう声をかけると、五十代くらいの女性が振り向いた。
 紘彬と如月は警察手帳を見せた。
「ご苦労様です」
 女性が丁寧に頭を下げた。

「さっきも刑事が来たと思いますが、内藤君にもう少し確認したいことがあるので……」
 如月がそう言うと、
「どうぞ。私は向こうへ行ってますので」
 内藤の母親らしき女性は病室から出て行った。

「内藤君、少しいいかな」
 内藤は口をつぐんでいた。
「傷の具合は?」
「そんなこと、聞きに来たの?」
「これは社交辞令」
 如月がそう答えると、内藤の口角がわずかに上がった。

「犯人は誰だか分からないって言ったそうだけど」
「それがどうかした?」
「ホントは誰だか知ってるんだよね。庇ってるんでしょ」
「なんで俺があんなヤ……」
 内藤は言いかけて慌てて口を閉じた。

「俺には理由は分からないけど」
 如月はそう言うと、
「じゃあ、行きましょうか」
 紘彬に声をかけて踵を返した。

「俺が訴えないって言ったら!?」
「殺人未遂は親告罪じゃないから」
 如月は振り返って答えた。
「でも、俺のせいで……」
「じゃあ、仮に彼を捕まえなかったとして、それで何か解決するの?」
 如月が言った。

「え?」
「万引きで何か解決した?」
 内藤は黙り込んだ。
「腹いせに君を刺して、捕まらなかったとしたら、また同じことをするんじゃないの? 原因は相手にあるんだからって言い訳して、気にくわない人を刺して回るようになるかもしれないよ」
 内藤は俯いた。掛け布団の上に出していた両手を強く握りしめる。

「たとえ何があろうと、人を刺すのはいけないことだよね。もし君に何か非があったんだとしたら、法的な手段に訴えるべきだった。そのための法律でしょ」
「法律のことは詳しくないけど、俺を訴えられるような法律がなかったとしたら?」
 内藤が小さな声で訊ねた。

「そのための選挙権だろ」
 紘彬が言った。

 内藤が怪訝な表情で顔を上げる。
 いきなり選挙の話が出てきて戸惑ったらしい。

「法律がなくて困るって言うなら国会議員に働きかけて作ってもらえばいい。そのための立法府だし、そのための国会だし、そのための選挙だ。国会議員は法律を作るために給料もらってるんだから」
「でも、俺はまだ選挙権……」
「君にはなくても彼にはあるよ」
 如月が言った。
 内藤は俯いた。

「もし、君が後悔してるんなら、担当検事に事情を伝えてあげるよ。多分、情状酌量してもらえると思う」
「ホントですか!」
 内藤はまた顔を上げた。

「ただ、それだと君がやったことが裁判で公になっちゃうかもしれないけど。学校退学になるかもしれないよ」
「構いません。自分がやったことです。責任を取ります」
 内藤は如月の目を見つめて言った。
「分かった。じゃ、彼を逮捕したら検事にそう伝えるよ」
 如月はそう言うと、今度こそ病室を後にした。

 一旦署へ戻って課長に報告すると、紘彬と如月は高田馬場の書店へ向かった。
 道すがら、如月は、容疑者のガードマンと紘一や内藤との関わりを話した。

「黙っててすみませんでした」
「気にすんなよ。どうせ言わないでくれって頼まれてたんだろ」
「そうですが……」
「いいっていいって」
 紘彬が如月の背中をばんばん叩いた。

 如月は少し気が軽くなった。
 紘彬の開けっぴろげな性格にはいつも救われている気がする。

「しかし、万引きした高校生を刺したってことは、クビにでもなったかな」
「それくらいじゃなければ、あそこまで庇おうとはしないでしょうね」

 やがて書店が見えてきた。
 紘彬と如月が警察手帳を見せると店長のオフィスに通された。

「え、新発田しばたですか? 彼ならしばらく前に解雇しましたが、また何か問題でも?」
「新発田の住所を教えていただけますか?」
「あの、何かこの店のことで問題でも?」
 谷垣がしつこく訊いてきた。新発田より店のことが心配なようだ。

「この店には関係ありませんから、住所を」
 如月がそう言うと、谷垣は安心した様子で新発田のファイルを差し出した。
 それを見ると、新発田の住所は石神井だった。

 一旦署へ戻って逮捕状を取ると、紘彬と如月は石神井にある新発田の家に向かった。
 家には新発田の妻がいて、夫は仕事へ行っていると答えた。
 仕事をクビになったことは言ってないらしい。

「旦那さんがどこにいるか、電話して聞いていただけますか? 警察が来たことは伏せて」
 紘彬がそう言うと、新発田の妻は不安そうな顔で電話をかけた。
「出ません。留守電になってしまいます」
「奥さんのスマホ、ちょっとお借りしていいですか?」
 如月はそう言ってスマホを借りると、新発田のスマホの位置情報を検索した。
 表示された地図を紘彬と如月はのぞき込んだ。

「駅とこの家の中間にいますね」
 如月はスマホを返しながら言った。
「よし、行こう」

 二人は新発田の家を後にした。

 夫に知らせるなという口止めはしなかった。
 教えるなと言ってもその場で見張ってなければ止めることは出来ない。それなら言うだけ無駄だ。
 歌舞伎町と比べると、夜の住宅街は暗かった。

「桜井さん、自分は顔を知られてますからなるべく暗がりを歩くようにします」
 如月は道路の反対側を歩き始めた。

 紘彬と如月が駅へ向かって歩いて行くと、向かいから男がやってきた。
 如月はわずかに足を速めた。
 男が街灯の下を通ったとき顔に光が当たった。
 新発田だ。

 如月は道を横切って男に近付いた。
 それを見た紘彬は男の正面に立ちふさがった。
 新発田は、はっとして身を翻そうとした。
 その行く手を如月が阻んだ。

「貴様……!」
 新発田に憎悪の表情が浮かんだ。
 紘彬は新発田の肩に手をかけた。
「新発田真紀雄、殺人未遂の罪で逮捕する」
 一瞬、肩に掛かった手を振り払おうとする仕草をしかけた後、大人しく手錠をかけられた。

「あなた!」
 新発田の妻の声がして三人は振り返った。
 女の子と、それより少し小さい男の子が女性の後ろから顔を覗かせるようにして不安そうに新発田を見ていた。

「あの、夫は何を……」
 新発田の妻が夫を引っ立ててパトカーに向かう如月に訊ねた。
「高校生を刺して殺そうとした罪です」
 如月は感情のない声で答えた。
「そんな……」
 絶句する新発田の妻に軽く会釈をするとパトカーに向かった。

 警察署に着くと、新発田は取調室に入れられた。

「俺のせいじゃない!」
 新発田が両手で取調室の机を叩いた。
「高校生を殺そうとしておいて何言ってんだ!」
 上田も負けじと机を叩いた。

「なんで内藤宗佑を刺した」
「そいつとあのガキのせいでクビになったんだ」
 新発田が如月を睨み付けた。
「それは違う。何もしてない紘一君に無実の罪を着せようとしたからクビになったんだろ」
 如月が言った。

「そもそもあのガキが万引きなんかしなけりゃ……」
「紘一君に濡れ衣を着せようとした言い訳にはならないよ」
「クビになったんなら大人しく職探ししてりゃ良かったじゃねぇか」
「今時そう簡単に就職先が見つかるわけないだろ!」
「それで内藤宗佑を刺したのか。最初から彼を狙ってたのか?」
 上田が訊ねた。

「どっちのガキでもよかった。思い知らせてやらないと俺の気が済まなかったんだよ!」
「逆恨みで殺そうとしたのか」
「逆恨みじゃない!」
「逆恨みだろ! 殺人未遂だからな。刑期は長くなるぞ」
 上田が言った。

「あのガキのせいで……」
「内藤君は反省してるよ」
 如月が落ち着いた声で言った。
「今更反省したって遅せぇよ!」
 新発田が怒鳴る。

「あなたを告発したくないって言ってた」
「じゃあ、刑務所へは……」
「行くに決まってんだろ!」
 新発田は恨めしげに上田を睨んだ。
「検事に内藤君のことは伝えるから情状酌量はされると思うよ」
 新発田は納得できないという表情で黙り込んだ。

        四

 翌日、永山と岡本の検屍報告書が紘彬達の署にも回ってきた。

「なんの毒の痕跡も無かったんですね」
 紘彬は黙ってしばらく解剖所見を見ていた。
「如月、岡本達の所持品の中にエキペンはなかったよな」
「はい。ありませんでしたけど」
「バカだな、あいつ」
 紘彬が呟く。

「え?」
 如月が聞き返した。
「特殊な毒なんか使ったら薬理学関係の人間だってすぐにバレるだろ。一般人用の毒はトリカブトなんだから」
 紘彬が言った。

「トリカブトが一般人用かどうかはおいとくとして、奥野も製薬会社勤めですが、吉田さんも大学の研究室で薬の研究してるんですから、どちらなのかは……」
「ああ、そうか」
 紘彬が言った。
「山崎じゃ無くて吉田の名前を使ったのもそのためか」

 そのとき、電話がかかってきた。電話のそばにいた紘彬が受話器を取った。それを見て、如月は課長のオフィスへ向かった。

「なんだ」
 如月が入って行くと、課長が書類から目を上げた。
「あの、今回の……内藤君が刺された件なんですけど……」
 如月は課長に自分のせいだと告げた。

「どんな処分でも受けます」
 課長は如月を見ながら、
「桜井も同じこと言いに来たぞ」
 と言った。
「それは違います! 桜井警部補は何も知らなかったんです。自分が独断で……」
 課長は手を振って如月の言葉を遮った。

「もういい。仕事に戻れ」
「あの、処分は……」
「してほしいのか?」
「そう言うわけでは……」
「ならさっさと仕事に戻れ」
「はい。失礼しました」
 刑事部屋に戻ると紘彬が報告書を読んできた。

「あの、桜井さん、自分を庇ってくださったそうで……」
「別に庇ったわけじゃないよ。紘一のためにやってくれたことだからさ。それより早く帰ろうぜ」
 紘彬は如月に声をかけた。
「はい」
 如月は紘彬と並んで歩き出した。

「お前が持ってきてくれた腐葉土のお陰で桜に蕾がついたんだぜ」
「ホントですか!? じゃあ、今年は花が見られますね」
「ありがとな。お祖母さんにもお礼言っといてくれ」
「はい」
 そんな話をしながら紘一の家の前に着くと、その桜の上の方が裂けて折れていた。

「これ……、どうしたんでしょう」
 二人はしばし呆然となって桜の木を見上げていた。
「紘一に聞いてみよう」
 我に返った紘彬が言った。

 二人は家に入った。二階の紘一の部屋に入ると紘一がいた。

「紘一、あの桜、どうしたんだ?」
「近所の子がバトミントンの羽根を取ろうとして木によじ登ったら折れたって……」
「そっかぁ、折角今年こそは咲くと思ったんだけどな。悪いな、如月」
 紘彬は落胆した様子で如月に謝った。
「自分のことは気にしなくていいですよ」
 そうは言ったものの、何となく、あの桜は自分のような気がした。

 ずっと頑張ってきて、ようやく花が咲かせられると思ったら木が折れてしまった。
 今回のことにしても、もっと上手くやれば新発田はクビにはならなかったのではないか。

 クビにならなければ内藤だって刺されることはなかったはずだ。
 幸い命に別状はなかったが、下手をすれば内藤は死んでいた。
 如月の思考はどんどん悪い方向へと進んでいった。

 よそう……。
 一番がっかりしてるのは桜井さんなんだから。

 如月は、桜のことを頭から追い払うようにゲームに集中した。

 朝――。

 刑事部屋で捜査会議をしているときだった。

「麻生真理が死んだ?」
 紘彬が団藤に聞き返した。
「夕辺亡くなったそうだ」
「殺人事件になった訳か」
 紘彬が言った。

「そうだ。それから凶器の破片についていた微量の血液が永山のものと一致した」
「え、でも、前に他のヤツの血液は見つからなかったって言ってなかったスか?」
 佐久が訊ねた。
「凶器の花瓶の破片についていた血を調べ直したら、麻生真理のものとは違う血液が見つかったそうだ。多分、割れた破片でどこかを切ったんだろう」

 始末書を書いた甲斐はあったと言うことか。

「とにかく、麻生真理の事件に関しては被疑者死亡で書類送検された」
 団藤が説明をしていると、突然電話が鳴った。

 如月が受話器を取った。
 しばらく話してから、電話を課長の回線に回した。

 団藤が続けようとしたとき、
「桜井、如月、新宿署まで行ってくれ」
 課長が団藤の言葉を遮った。

 紘彬と如月はすぐに席を立って刑事部屋を後にした。

 新宿署に着くと、もはや顔なじみになった橋本刑事が、呼び立ててすまないと詫びながら会議室に案内した。
 会議室には誰もいなかった。
 三人が席に着くと、刑事の宮本がお茶を出してくれた。

「桜井警部補は奥野の知り合いだとか」
 橋本が切り出す。
「高校時代の同級生です」
「小沢芳子という女性はご存じですか?」
「奥野の……元恋人です」
「元?」
「少なくとも奥野は別れたと言っていました」
 紘彬が答える。

「プライベートで会ったことはありますか?」
「奥野と飲んでるときに」
「奥野から紹介された?」
「一応」
「正確にはどう……」
「あの、失礼ですが、なんのために我々を呼び出したんですか? まるで桜井さ……警部補を取り調べしているような口振りですけど」
 如月が更に質問をしようとした橋本を遮って訊ねた。

「失礼しました。昨日の夜、小沢芳子が死んでいるのが見つかりましてね」
「小沢芳子が? もしかして、捨てられたのを苦に自殺とか?」
「いえ、我々は他殺ではないかとみています」
「理由は?」
「死因がシアン化物によるものなんですよ」

 橋本の説明によると、カプセルの入ったプラスチックケースの中にシアン化合物が入っているものがあったのだという。

「念のため、二、三錠入れておいたんでしょうな」
「そのカプセルの薬って言うのは……」
「堕胎薬です」
「堕胎薬!?」

 紘彬が信じられない、という表情で橋本を見返した。

「小沢芳子が妊娠しては困ると思って渡してたんでしょうね。ケースにはビタミン剤と書かれていました」
「詳しく教えていただけますか」
 紘彬がそう頼むと、橋本がファイルなどを見せながら分かっていることを話してくれた。
「それでは、奥野は小沢殺しの容疑でも手配されるわけですね」
「そうなりますね」

 紘彬は新宿署を出るとため息をついた。

「ったく、あいつは何をやってるんだ」
 如月はかける言葉が思いつけず、ただ黙って車を運転していた。

 不意に、車内に無線の音がした。

「桜井だ」
「奥野の目撃情報が入りました」
 飯田の声だった。
「百人町のカプセルホテルに潜伏してる模様です」
 詳しい住所を聞くと、
「分かった。すぐに向かう」
 と言って無線を切った。

      五

 新宿署から百人町まではすぐである。二人は五分とかからずにホテルの前に着いた。

 ホテルに着いたのは二人が最初だった。
 通報してきた従業員に聞くと、奥野はたった今出ていったところだという。
 二人は急いでホテルを後にした。

 外に出ると、丁度奥野がスポーツ用品店に隠れようとしているところだった。
 如月と奥野の目が合った。奥野が見られたことに気付いたのはすぐに分かった。

 紘彬と如月がその店の前に辿り着くのと、売り物のバットを掴んだ奥野が飛び出してくるのは同時だった。

 店から出てきた奥野が紘彬にバットを振り下ろす。

「桜井さん!」
 如月が叫ぶのと、紘彬がたいを開いてかわすのは同時だった。

 奥野はバットが地面に就く直前で止めると、そのまま逆袈裟に振り上げた。
 紘彬が後ろに仰け反りながら飛び退く。
 着地と同時に腰の後ろに隠してあった特殊警棒を取り出す。

 警棒を伸ばすのと、奥野がバットを振り下ろすのは同時だった。
 紘彬は警棒でバットを受け止めた。

「桜井さん! その警棒どうしたんですか!」
「こういうこともあろうかと思って自分で買っといた!」
 奥野と鍔迫つばぜり合いをしながら紘彬が答えた。
「それ、許可は……」
「取ってない!」
 如月は紘彬から離れながら目をそらした。

 見てない見てない。
 桜井さんは素手で戦ってる。
 許可を取ってない警棒なんか持ってない。

 呪文のように自分に言い聞かせる。

 紘彬は、如月が二人から離れる足音を聞くと、バットを思い切り押し返しながら後ろに飛んだ。
 再び奥野がバットを振り上げた。
 振り下ろされたバットを紘彬は体を開いてよける。

 奥野が身体の向きを変えながらバットを振り上げ、打ち下ろす。
 紘彬が警棒で弾く。
 かなり強い力で叩いたにもかかわらず、奥野は体勢を崩すこともなく、再度振り上げたバットを振り下ろしてきた。
 かなり膂力りょりょくがあるようだ。

 剣道はやめたと言っていたが、身体は鍛えていたのだろう。
 バットを軽く弾いて素早く突きを繰り出す。

 奥野は上体を傾けてよけると、警棒をバットで叩き下ろした。
 紘彬は警棒が地面につく前に止めると、逆袈裟に振り上げた。
 奥野はそれを横に弾くと、バットを突き出す。

 紘彬が後ろに飛んでよける。
 二人の間に距離ができた。
 奥野はバットを振り上げると、紘彬に駆け寄りながら思い切り振り下ろした。
 紘彬が警棒で受け止める。

 一瞬の鍔迫り合いの後、紘彬は警棒でバットを押した。そのまま巻き込むように警棒を回してバットを弾く。
 バットが奥野の手を離れて飛んでいった。

 間髪を入れずに如月が奥野に飛びかかって組み敷いた。
 道路に押しつけたまま、
「奥野博、殺人容疑で逮捕する」
 後ろ手に手錠をかける。

 その瞬間、どよめきが起きた。
 気付くと三人は野次馬に取り囲まれていた。歓声は日本語だけではなく、韓国語や中国語、アラビア語まであった。アラビア語は近くのモスクに通っているイスラム教徒のものだろう。
 いつの間にか来ていた佐久が道路に落ちたバットを拾い上げた。

 署へと連行された奥野は、上田と飯田に取り調べを受けることになった。
 紘彬は刑事部屋で永山と岡本の検死報告書と、奥野の家と会社の家宅捜索で見つかった資料を丁寧に見直した。
 やがて、書類を机の上に置くと、取調室に向かった。

 紘彬は取調室に入ると、
「奥野」
 と声をかけた。
 奥野が驚いたように顔を上げたかと思うと、いきなり立ち上がって紘彬に詰め寄った。

「どういうことだよ! 芳子の殺人容疑ってなんだよ!」
 紘彬の襟元を掴もうとして、取り調べをしていた飯田に押さえられた。
 無理矢理椅子に座らせられる。

「お前、俺が芳子のこと死ねばいいって言ったのチクったのかよ!」
「俺は言ってない。お前が今、自分で言った」
 落ち着いた声で紘彬が答えた。

 奥野は悔しそうに紘彬を睨む。
 紘彬は奥野の向かいに座った。

「小沢芳子のことは聞かないのか?」
「何を聞けって?」
「大丈夫なのかとか」
「なんで俺がそんな心配しなきゃいけねぇんだよ」
 噛み付くように奥野が答えた。

「恋人だろ」
「とっくに別れてんだよ! 別れた女なんか殺そうとしたりするか!」
「お前が別れたつもりでも、向こうはそう思ってなかったんじゃないか?」
「俺が芳子を殺そうとしたって証拠でもあんのかよ!」
「堕胎薬の瓶にお前の指紋があった。瓶にビタミン剤って書いてあったってことは、ビタミン剤だって言って渡したんだろ」
 紘彬が言った。

「確かに渡したけど、あれじゃ死なないことくらい、三流医大出てたって分かんだろ!」
「確かに堕胎薬では死んでない。その薬にシアン化物が入ってた」
「そんなもの使うかよ! 使うなら……!」
 言いかけてからハッとして口をつぐんだ。

「使うなら永山や岡本を殺した毒を使う?」
「使うなら自分の会社の薬使うって言おうとしたんだよ!」
「自分の会社の薬使うバカがいるか。現に堕胎薬はよその会社の物じゃないか」
 奥野が黙り込む。

「お前んちから面白いものが見つかった」
 紘彬は奥野の前に化学組成式の書かれた紙を置いた。
「これを過量投与されたらどうなると思う?」
「知るか」
「永山達が死ぬところは見てないからどうなるか分からない?」
 奥野は答えなかった。

「これ、検出するにはどうしたらいいと思う?」
 紘彬は紙を指で叩いた。
「検出出来るかどうかくらい、見れば分かるだろ。お前、東大出たんだし」
 そう言われて奥野は渋々という表情で紙に目をやった。

 しばらく紙を見てから、
「これを検出するのは不可能だ」
 と、答えた。
「うん、俺も最初そう思った」
 紘彬の言葉に、奥野が顔を上げる。紘彬を探るように見ている。
「でも、この部分」
 紘彬は化学組成式の一部のところに、ボールペンで丸を付けた。

「ここが残る。これは普通なら体内には存在しない。この薬物を投与されなければ体内にはあるはずのない物質だ」
「そうかもしれないが、これはすぐに代謝して排泄されるはずだ」
「排泄されるまで生きてればな」
 奥野が目を見開いた。
 紘彬が言わんとしていることに気付いたようだ。

「永山と岡本がどこで投与されたのかはまだ分かってないが、飲まされてから死ぬまでの時間じゃ排泄するところまではいってなかったんじゃないか? 俺の推測が正しければ、肝臓か腎臓に残ってるんじゃないかと思うんだが。監察医務院にこれが検出されないか、再検査してくれるように頼んだ」
 奥野の顔色は真っ青になっていた。

「この薬物はお前の会社では扱ってないし、吉田の研究室にもない。でも、お前の部屋にはあった。言い逃れは出来ないぞ」
 奥野は俯いた。肩が震えている。
「お前んちから大量のHeも見つかった。量からいって自分用じゃないな。お前が作って売ってたんだろ」
 化学薬品を作る時には大量の熱が出たり、作る過程で有毒ガスが出たりすることがあるから普通の家で作るのは難しい。

「お前んち、山梨に別荘持ってるって言ってたな。そこで作ってたんじゃないか。今そっちも家宅捜索してるところだ」
 紘彬は奥野の様子を見ながら言った。

「警察が歌舞伎町の店を調べて回ってるって誰かから聞いて、手を引くか、場所を変えるかしようと思ったんだろ。売人の口からお前のことがバレないように飲み物に毒を混ぜて口を封じた。石川が逮捕されてたのは誤算だったんだろ」
 奥野は黙っている。

「どうして、あんなもの作った? お前はエリートなんだし、そんなもの作らなくたって金には困ってなかっただろ」
「同僚が面白半分でデザイナーズドラッグの化学組成を調べたんだよ。それ見て、あの程度で法をすり抜けられるなら、俺はもっといいものが作れるって思ったんだ」
「何故それを売った? 面白半分で作ったなら売る必要はないだろ」
 紘彬が言った。

「違法じゃないなら金にしたっていいだろ。女と付き合うのは金がかかんだよ」
「五人もいれば金がかかって当然だ」
「五人?」
 奥野は一瞬不思議そうな顔をしてから、
「ああ、それ信じてたのか。東大落ちて当然だな」
 吉田を嘲るようにせせら笑った。
 紘彬が黙って見ていると奥野は表情を引き締めた。

「Heのせいで傷付く人が出るかもしれないって思わなかったか? 薬物なんだ、副作用が出る可能性があるって分かってただろ」
「どうせヤクやるのなんて碌なヤツじゃないんだ。副作用が出たって自業自得だろ」
「お前、それ遺族の前でも言えんの?」
 奥野は目を見開いた。

「あれで死んだヤツがいるのか?」
「Heをやり続けると確実に死ぬ。そして、死ぬ直前に凶暴になるんだ。He中毒者に殺されたのは十人は下らない」
「まさか」
 信じられないという表情で紘彬を見返した。

「ホントに知らなかったのか?」
「ヤクだぞ。治験なんかしてねぇっての」
 奥野は紘彬から目をそらすようにそっぽを向いた。
「全部、お前の罪に問われるぞ」
「冗談じゃない! なんで俺がヤク中のやったことまで責任負わされんだよ! ヤクなんかやるヤツが悪いんだろ!」
 奥野が椅子を蹴って立ち上がり、飯田に押さえ込まれた。

「やるヤツも悪いが売るヤツも悪い。小学生じゃないんだ、言われなくても分かるだろ。その上、バレそうになって売人まで殺した。申し開き出来るならしてみろ」
 奥野が悔しそうに紘彬を睨み付けた。
 紘彬の正論に言い返せないのが悔しいのかもしれない。

「どうして吉田の名前を使った?」
「浪人しても東大に入れなかった負け犬だぜ。結局三流大学入って、就職すら出来なくて、大学の研究室に残って腐ってるヤツなんだ。世間はヤク作って流してもおかしくないって思うだろ」
「吉田はお前のダチだろ」
「お情けで付き合ってやってただけだ」
 奥野がうそぶく。

「吉田はお前の名前、言わなかったぞ。ダチは売らないって」
「え……」
「お前は負け犬以下の人間だ。何か言うことはあるか?」
「……芳子を殺したのは俺じゃない」
「そうか」
 紘彬はそう言うと、席を立った。

       六

 Heは製造者を捕まえた。これでもうHeは出回ることがない。今後も他のデザイナーズドラッグは次から次へと出てくるだろうが。
 永山と岡本を殺した犯人も捕まえた。
 しかし、紘彬も如月も嫌な気分が拭えなかった。

「桜井さんはどう思いますか? 小沢芳子は殺されたんでしょうか」
「殺されたとしても犯人は奥野じゃないな」

 友人だったから庇っているわけではない。
 今更、一人被害者が増えたところで何も変わらない。
 にもかかわらず、あれだけ頑固に否定するのは本当にやってないからだろう。
 奥野と芳子は付き合っていたのだ。薬を渡したことは奥野自身も認めている。指紋はあって当然だ。

「殺すなら永山達と同じ毒を使うだろ」

 紘彬が指摘した物質は通常の薬物検査では調べない。
 だから、永山と岡本のときは見過ごされてしまったのだ。
 永山達と違って、小沢芳子の遺体から何も検出されなければ殺人は疑われなかっただろう。
 わざわざ他殺であることを示すシアン化物など使うわけがない。

「多分、奥野に殺されたように装っての自殺だろうな」
「それ、飯田先輩に言わなくて良かったんですか?」
「伊達に長いこと刑事やってるわけじゃなんだ、言われるまでもないだろ。大方、永山や岡本殺しを吐かせるためのネタに使ってるんだろ」
 確かに紘彬の言うとおりだ。

 きっと今頃は小沢芳子のことも調べ上げているだろう。交友関係や怨恨の有無など本人より詳しく知ってるに違いない。

 そのとき、如月のスマホが震えた。ポケットからスマホを出して画面を見た。紘一からのメールだ。
 文面には、

〝今日は必ず来て〟

 と書かれていた。

「なんだ、桐子ちゃんからか?」
 紘彬がからかうように言った。
「いえ、紘一君からです。今日来てほしいって」
「言われなくても行くのにな」
「そうですよね」

 紘彬ではなく、如月にメールが来たのも腑に落ちない。

 内藤のその後のことでも聞きたいのだろうか。
 しかし今のところ大した情報はない。
 ケガに関してはクラスメイトである紘一の方が詳しいだろう。
 如月は首を傾げながらスマホをしまった。

 取調室を出た二人が刑事部屋に向かっていると、顔なじみの少年課の刑事が如月に声をかけてきた。

「じゃ、俺は先に行ってるわ」
 紘彬はそう言って一人で刑事部屋に向かった。
「内藤君の処分が決まったんでしょうか?」
「親御さんが各書店に詫びて回ったこともあって、どこも彼を訴えないそうだ。だから今回はお咎めなしだ」
「そうですか」
 取りあえず、それだけでも良かった。

「学校の方は?」
「学校での態度は特に悪くはなかったし、成績も優秀なので一ヶ月の停学処分だそうだ」
「退学にはならないんですね」
 如月は安心した。

 勿論、学校では噂などで嫌な思いをするだろうが、それは仕方がない。
 本人も覚悟の上だろうし、紘一は見捨てずに支えるはずだ。

「有難うございました」
 如月は刑事に深々とお辞儀をした。

 これで紘一君にいい報告が出来るな。

「あ、風太さん」
 刑事部屋に向かっていると、桐子と出会った。
「桐子ちゃん」
「事件、解決したそうですね」
「うん」
「今度の土曜日の約束、大丈夫ですか?」
 その日は二人とも休みなので、映画を見に行く約束をしているのだ。

「今んとこ大丈夫だよ」
「良かった」
 桐子が微笑んだ。
 その笑顔を見ただけで元気をもらえた気がした。

「百人町の大捕物の話、聞かせてくださいね」
「分かった」
「じゃ、お仕事頑張ってください」
「桐子ちゃんもね」
 如月はそう言うと桐子と別れた。

 刑事部屋に戻ると紘彬が待っていた。
 他には誰もいない。

みんなどこに行ったんですか?」
「上田と飯田はまだ取り調べ中だ。まどかちゃんと佐久は空き巣があったからそっちに行った」
「じゃあ、自分達は……」
「まどかちゃんと佐久の応援に行ってくれって。行こうぜ」

 紘彬と如月は再び署を後にした。

 退勤時間になり、紘彬と如月は揃って署を後にした。
 家の近くまで行くと、紘一が外に出て待っているのが見えた。
 帰るときメールを入れておいたから、そろそろ来ると思って待っていたに違いない。
 紘一は、紘彬と如月を見つけると、手を振った。
 こんなことは初めてだ。
 二人は顔を見合わせた。

「兄ちゃん! 如月さん! 見てよ! 花が咲いてる!」

 紘一が差した指の先には、一輪の桜の花が咲いていた。折れた枝を一応ガムテープで巻いてくっつけておいたのが良かったのだろうか。

「ホントだ……」

 如月は信じられないような思いで桜を見上げた。
 桜は枝を切ったり折ったりすると木が枯れると聞いていた。
 だから、最悪枯れることも覚悟していた。
 しかし、桜の木は風に揺られながらもしっかりと白い花を付けていた。他にも蕾が膨らんでいる。

「花、咲いたんだねぇ」
 後ろから声がして振り返ると晃治が立っていた。仕事から帰ってきたのだ。
「親父、お帰り」
「おじさん、お帰り」
「お父さん、お邪魔しています」
 如月は丁寧にお辞儀をした。

「ようやく咲いたねぇ」
 晃治も嬉しそうに花を見上げた。
「木が折れたときはダメかと思ったけどな」
「折れたから、咲いたんじゃないかな」
 晃治が言った。

「え?」
 紘彬達が晃治の方に顔を向けた。
「植物って言うのは、環境が悪くなっても花が咲くんだよ」
「そうなの?」
「きっと、枯れる可能性があると、頑張って子孫を残さないとって思うんだろうね」
 晃治が桜を見ながら言う。

「そうか、なら、もし枯れても種を取ってまた植えればいいんだな」
「え?」
 如月は紘彬を見上げた。
「枯れてもゼロからやり直せばいいってこと。年は違っちゃうけどさ」

 枯れてもゼロからやり直す。
 桜井さんらしいな。

「もし種からやり直すなら、花が咲くまで何度でも腐葉土送ってもらいます」
「まぁ、枯れないに越したことはないから、ちゃんと世話しないとな」
「内藤もやり直せるよね」
 紘一が誰にともなく言った。

「大丈夫だよ。紘一君がいれば」
 如月は少年課の刑事から聞いた話を紘一に伝えた。
「そうなんだ、良かった」
 紘一は心底嬉しそうに微笑わらった。

「お見舞いに行ってあげれば喜ぶよ」
「そうだね。そうするよ」
 そう言うと、
「今日は兄ちゃんと如月さんからだろ。もう準備してあるよ」
 踵を返して玄関へ向かった。

「じゃあ、部屋へ入るか」
 紘彬も後に続いた。
「はい」

 如月がもう一度振り返ると、一陣の風が吹いて花の香りを運んできた。枝が揺れたが、花は散ることもなく風にそよいでいた。

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

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