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ものを書くということ

ものを書くという行為は、科学の実験に似ている。
体内の混沌とした液体のような広がりを空中から眺めて、静かに何かがせり上がり、浮上してくるのを待っている。
それは実験と言いつつも、仮説もゴールもない根比べなのかもしれない。
砂とも金ともしれないうごめきを、じいと見つめながらただひたすらに待つのである。

登場人物が、勝手に走り出す瞬間というのがある。
設定した顔付きや性質が、日頃とはまったく別の感覚を伴って、ひとりそっと駆け出す。
作者からすれば、手綱のとれた犬が自由に熱狂的にどこかへ走り出す瞬間だ。
おうおうと言いながら汗をかきかき追いかける。
君たちの目指すべき終末はここだったじゃないかと言い聞かせ、筆を置くべき場所へ連れ戻す。
そんな時もあれば、元気なことは良いことだとにんまりしながら放置することもある。
どちらの場合も、大抵どこにいくかはよくわからない。

プロットを緻密に組み立てる人がいる。
そういう人の思考を尊敬するし、計画立てられる性質に嫉妬も覚える。
自分は自分がわからない。
だからわかるまで、待ったり吠えたり追いかけたり、脳内でトムアンドジェリーを繰り返さないといけない。
わかった気になったような気がして、翌日にはそうでもないような迷い込んだ気持ちになる。

それでも何とか言葉という留め金に感覚を押しやり、ひとつまとまった塊のような文章が出来上がったときは少し安心する。
液体の上澄みをうまくすくいとった、と思う。
もしくは海とも山とも知れない何かを捕獲した、と思う。
書き手として、管理者として、あるいは占い師として、達成感とは程遠い、やれやれという気持ちが好ましいと思う。

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