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観音菩薩になろうの会。観音さまとママと私と。
「観音菩薩になろうの会」を立ち上げたことでだいぶ有頂天になっていた私は、さっそくその事を、多少の緊張感を持って、友人5人に発表してみた。
1人は完全にスルー。
残りの4人は、特に驚くでもなく、興味があるわけでもなく、無表情で私を見ると、全く同じ質問をしてきた。
「それ、何するの?」
「観音菩薩になって生活してみる」
「··········」
この時を境に、だいぶ落ち着きを取り戻した私は
「なんでこんなことになったんだっけ?」
と立ち止まって考える。
観音菩薩って、それは心の中にしまっとくものでしょ。
なんで出しちゃったかなあ。
どうかしてる。だいぶおかしい。
でも、わかる。
心を見つめれば。
手を合わせれば。
記憶を辿れば。
溢れ出てきたのだと思う。
ずっと奥底にあった気持ちが。
春になって花が綻ぶみたいに。
私は今まで二度、観音さまに命を救ってもらっている。
9歳と18歳の時に。
9歳の時は、本当に死にそうだった。
夏休み明けくらいから体調がおかしくなり、高熱が出ては学校を休むようになった。
近くの町医者に何度行っただろう。
熱が出ては診てもらい、熱が下がってはまた学校に行くという繰り返しだったが、段々熱が下がらなくなり、ついに入院することになった。
季節は夏から秋を通り過ぎて冬になっていた。
今思い出しても、すごい熱だった。
私が小さかった頃は、まだ水銀の体温計だった。それをわきの下に入れるとき、毎回少しだけ身構えた。やけどするくらい熱い体には、それは鋭くとんがった氷みたいに冷たく刺さった。でもそれはほんの一瞬のことで、すぐに体温計が熱くなる。測り終わると、いつも赤い線が最後の所まできていた。42度。たくさん布団をかけられて寝ている私の体は熱くて熱くて、布団の中に太陽がいるみたいだと思っていた。
年が明けた頃には熱が下がらず、首の両側がかなり腫れていた。さすがに町医者では無理となり、大学病院に入院することになった。
家から車で病院に向かう時、後部座席で横たわりながら、漠然と
「もうこのまま帰って来れないんじゃないか」
と思っていた。
車の振動が辛くて、車の匂いが嫌で、気持ち悪くて、でも吐きたくなくて、
ただ窓から見える小さい空と隣の車を、目で追っていた。
入院してからは、ありとあらゆる検査を受けた。原因が見つからなかったので、最後は目から鼻から歯まで、車椅子に乗せられて病院中をまわった。しかし、どんなに検査をしても、原因を見つけることができなかった。
先生もお手上げ状態だったのだろう。
最後は点滴をやめると言ってきた。もしかしたら、それが原因かもしれないからと。それは私にとって死の宣告と同じだった。
その時の私は、まるっきり何も食べられなかったから。点滴を、それも腕じゃなくて、鎖骨からの高カロリーの点滴をやめると言われたとき、私は先生に何度も必死にお願いした。
「食べられないから、それだけは外さないで」
でも先生は、
「これが理由かもしれないから、外します。薬だと思って食べて下さい」
と言って、首を縦には振ってくれなかった。
食べられないというのは、食べたくないとかいう生半端なものじゃなく、どうにもならないことなのに。
点滴を外されてからはママと私の戦いだった。何かを食べる、それだけなのに、できない。どうしてもできない。何を出されても口に入れられない。涙がポロポロでてくる。
ママから、
「薬だと思ってお願いだから食べて」
と懇願される。
私が食べられそうなものが目の前に並ぶ。もっと涙が出てくる。ついにママも怒り出す。そんなママとわたしのやり取りが、何回あっただろう。
泣いてうつむいている私に、これならどう?と渡してくれたのが、小さな小さなつまようじくらい細い海苔巻きだった。
それは本当に小さくて細かった。
多分、その海苔巻があまりにも小さくて頼りなかったからだと思う。私はしばらく眺めると、それを口に入れた。
あの時のことを思い出すと、胸がギュッとする。追いつめられていくあの気持ち。
だけど、今ならわかる。
あのつまようじのように細い、小さなちっぽけな海苔巻きを作りながら、本当に追いつめられていたのはママだ。
食べられない、食べたくないと、病室で泣き続ける我が子を見ながら、一番泣きたかったのはママだ。
あの海苔巻の日からすぐのことなのか記憶は曖昧だが、多分その週の金曜日のことだと思う。
先生がママに言った。
「この週末で熱が下がらなければ、週明けの月曜日に劇薬を打ちます。ただとても強い薬なのでどのような副作用が出るかはわかりません。ただこのまま熱が下がらないと命が危ないので」
完全看護の病院だったけれど、私には付き添いが許されていて、ずっとママが隣にいてくれた。高熱で寝たきりの私が目を開けると、ママはいつも横にいて、手を合わせて何かをずっと唱えていた。
あの頃、病院でもまだ水銀の体温計を使っていたと思う。ある日、私の体温計が水銀から電子体温計に変わった。
それは、ママも私も初めて見るものだった。ピピッと夜の病室に電子音が響く。
突然、ママが看護師に、
「それはなんですか?残りの命を測ってるんですか?」
と食ってかかった。
私は見たことのないママを泣きそうになりながら見つめていた。
とっくに限界を超えていたのだと思う。
「もしこのままこの子が死んでしまうなら、雪山に行って一緒に死のう」
ずっとそう考えていたらしい。
「週明けに劇薬」と言われたママは、それまで以上に必死に、私の隣でずっと手を合わせて祈っていた。
その時の話をママから聞いたことがある。
あの夜、私の足先は、氷のように冷たくなっていた。ママがどれだけ必死にさすっても、温めても、氷のよう冷たい。体は42度の熱で燃えるように熱いのに、そこだけ、そこから下の足だけが異常に冷たく、それが時間と共に、くるぶし、膝下、膝と、徐々に上にあがってくる。ママは布団の中に手を入れて、私の足を触りながら思っていた。
「このまま心臓まで来てしまったら、この子は死んでしまう」
私は、足が冷たくなっていることも、
その時のママの気持ちも知らなかったけれど、ベッドからママを見ながらぼんやりと思っていた。
「死んでいく方は楽だな」
私はママを助けたかったんだと思う。
そう思ってからすぐだったのか、数時間後のことなのか覚えていないけれど、寝ていた私はいきなり起き上がって、ママに言った。
「ママ、ママが欲しい欲しいっていうから観音さまのおてての中で遊んでいたのに来てあげたのよ、なんでもっとかわいがってくれないの」
言い終わると、布団の中に倒れ込んだ。
この出来事は自分が自分を見ているみたいに、よく覚えている。起き上がったことも、言った言葉も、倒れ込んだことも。
でもなぜそんなことが私に起こったのか。なぜそんなことを言ったのか。
ママは一瞬にして思い出した。
ママのお腹に私がいる時に、高崎の観音さまに、おばあちゃんと一緒にお参りに行ったこと。
観音さまに「かわいい女の子を下さい」とお願いしたこと。
お願いした通りの女の子を授かったのに、忙しさにかまけて、お礼参りに行かなかったこと。
その時買った観音さま像を、三歳の時に私が遊んでいて、首から折ってしまったこと。
そして、それをそのままゴミとして捨ててしまったこと。
夜中の三時、ママは小銭を握りしめて病院の公衆電話に走った。
ママから電話をもらったパパは、高速を飛ばし、おばあちゃんの家まで、車を走らせる。電灯もない真っ暗な道で、ポツンと待っていてくれたおばあちゃんを乗せ、高崎の観音さまに一緒に向かう。
「とにかく寒い日だった」
パパもおばあちゃんも、口をそろえて言う。
暗い中、急かされるように急ぎ足で境内に向かう。焦っていたおばあちゃんが太鼓橋で足を滑らせて、すってんころりんと転んでしまう。時間にして朝の五時くらいだったらしい。
暗闇の中、白くそびえる観音さまに手を合わせる。
もうすでに働き始めていたお寺の人に事情を話し、御護摩をお願いする。
私は子供の頃、この話が大好きで、おばあちゃんにねだっては、何度も話してもらった。冒険譚くらいに思っていて、太鼓橋が出てくるとワクワクして、このすってんころりんの所で、いつも大笑いした。
おばあちゃんもいつも一緒に笑ってくれた。
私はおばあちゃんに「ありがとう」って、ちゃんと言ったことがあっただろうか。
そして、私に何が起こったか?
熱が下がった。
あれほど下がらなかった熱が下がった。
朝の検温の時には、42度から平熱の36.6度まで熱が下がっていた。
明け方、目を開けると、暗い病室の空間に、金色の細かい粒子みたいなものが現れた。
それは、ぼあぼあと浮いていて、ひとかたまりみたいな鈍い光だった。
それを見た私は、すぐに観音さまだとわかった。観音さまが降りて来てくれたんだと。
そして、私は治るんだと思った。
その時の気持ちをどう表現したら良いのか、わからないけれど、なぜか
「そっちにはまだ行けないんだ、まだ十分じゃないんだ」
みたいなことをぼんやりと思っていた。
なんでそんなことを思ったのかわからないけれど、その光の粒子が消えるまで、暗い病室に浮かぶその金色の空間を、ただそう思いながら、ベッドの中から見ていた。
これは9歳の時の話で、18歳の時にも同じ様な体験をした。治る時には、また観音さまが出てきてくれた。
話は長くなったが、とにかく私は生まれてくる前から、生まれてきてからも、
観音さまが私の中に、まわりに、いつもいた。
いつも助けてくれていた。
なのに、当たり前すぎて、考えることも感謝することもしてこなかった。
3年前にママが亡くなった。
そのママをずっとずっと守ってくれていたのが観音さまで、倒れるまで肌身はなさず身に着けていたのが観音経だった。
私はママを失って、起き上がれなくなるくらいになったけれど、その私をずっと支えて助けてくれたのも、観音さまだった。
毎日観音さまに、ママを想って手を合わすようになってから、だんだんと私の中に、
観音さまが「ある」ようになって、
私の中におわす観音さまを、グッと感じるようになった。
そこで、飛び出して来たのが、アレ。
「観音菩薩になる」からの
「観音菩薩になろうの会」
そして、冒頭のやりとり。
「それ何するの?」
「観音菩薩になって生活してみる」
「·········」
友人の無言は雄弁だ。
友人たちの反応を見て、これはもう少し説明が必要なことがわかった。
次回はそのあたりのことを書いていこう。
つづく
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