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『すべて、狂った水槽』第二話

 誰にも話すつもりはなかった。哀れみの目を向けられたいわけでも、話を聞かされた相手を困らせたいわけでもなかったからだ。むしろ自分が欠けた人間であると明らかにするような、恥の告白に似ていた。


 物心ついたときには、すでに父親が変わっていた。義父になったひとは導火線の短い男だったので、失敗を繰り返す子どもの僕を嫌った。温厚だと思っていた母親を事なかれ主義の愚かな女だと知ったのは、少し大きくなってからだ。
 おかげで幼少期からずっと痣を眺めて過ごした。そうして皮膚の下で血管が破れ、血液が溢れ出し、やがて再吸収されていく微細な変化に詳しい子どもができあがった。

「だから、問題ない」

 彼が抱えているのは、加虐性だ。
 ある昼下がり、授業を受ける教室で義父と同じ目を見た。普段の彼に似合わない猛々しさで、目先の黒板を睨みつける。そんな瞳をしているくせに、彼は堪えるように唇を結び、拳をきつく握る。あの男とは明確に異なっていた。
 そして机の下で、自分の腕を何度か殴った。

 ドンッ

 ドンッ……

 続く鈍い音に、周りは誰ひとり気づかない。僕にはこれほど大きく、鼓膜を揺らす音はないと言うのに。心臓が激しく僕の胸を叩く。乱れた心拍のリズムにあてられて、息が吸えているのかどうかもわからなくなっていた。


「怪我してほしくないんだ」
 こんなに綺麗なのに。

 艶のある髪はいつもさらりと軽い。くっきりとした二重瞼に、長いまつ毛が続く。それをくぐると、真っ黒の瞳はそこらじゅうの光を集めて不気味なほどに輝いた。決して派手な見てくれではないのに、身の内に由来した端正さに心が騒つく。

 彼が他人を巻き込むまいと、この"自己処理"にたどり着いたのを悟った僕は、自分が標的になることを申し出たのだった。イカレた提案なのは理解している。これも夏の波間に滑り込ませてしまいたかった。

 気がつくと僕は、彼の左腕をとり、アームスリーブをめくっていた。
「また、紫になってる」
 数日前に見たものは黒ずんでいた。そこに一部重なる形で、新たな痣ができている。
「……なんなんだ、お前」
 得体の知れないものに邂逅した彼は、それから一言も話さなかった。沈黙し、目を見開いたままその場に立ち尽くす。その間も指先から伝わる振動は、間断なく僕の手のひらに届く。

 ああ、失敗した。


 それから、人目につかない場所を選び、僕らは時々会うようになった。しかし、何度会っても、彼が僕に手をあげることはなかった。

「気にしなくていいのに」

「黙ってろ」

 目と鼻の先まで近づきはするものの、彼は数秒のうちに掴んでいた胸ぐらをパッと離した。

 その数日後、彼の腕がまた紫になっていたのを見て、今度は僕が彼を呼びつけた。
「なにをしているんだよ」
 この駆り立てる焦燥感がどこから来るのかわからない。
「君はひととやり合わないとわからないよ」
 焦らされている感覚にも似た意地らしさに、つい、強い言葉が止めどなく溢れる。目の前の目つきがさらに鋭くなり、一歩足が出る。
「そんなに殴られたいのか」
 次の瞬間、彼の拳が僕のみぞおちを打つ。お腹を押さえてよろけ、壁にもたれかかった。息がうまく吸えなくて、うめき声すら出なかった。

 そんなとき、近くの扉がギギギと錆びれた音を立てた。
「おい、なにをやっている」
 ほとんど使われないはずの部室棟から出てきたのは、保健体育の先生だった。瞬時にバツの悪そうな顔をする彼に、先生は疑うような視線を向けながら僕に声をかける。
「なにかされたのか」
 先生は、彼が手を出した瞬間を見ていなかった。怪しみはすれど、確証を掴まずには動けない。
「大丈夫です。彼とは話を」
 ただそれだけです、と弁明する僕は、目の前の勝機に顔が綻んでいた。その油断がいけなかった。
「いや、ちょっと見せてみろ」
 ズボンからはみ出ていたシャツの裾を、先生が掴む。あ、ちょっと、と言う間もなくめくられたシャツからは、痣だらけで黒ずんだ皮膚があらわになった。慌てて隠したが、先生の横に佇む彼の目にはしっかりと映ってしまった。表情をなくした彼が瞬きひとつせず、先程までめくられていたあたりを呆然と見つめている。
「それ、昨日や今日の話じゃないだろう。お前、まさか」
 先生が、ぎろりと彼の方を見た。
 一瞬にして緊迫感が増す。彼はついに自分の立場の危うさに気づき、焦り始めた。

 疑いの目を向けられた彼は、口を微かに震わせ、拳を握りその場に立ち尽くした。分が悪い現場を前に、言い返すこともできないでいる。


 僕は、持っているカードで勝負することにした。
 今日この日のために今までがあったのだと思った。運命的な巡り合わせだった。

「ああ、これは父親です。義理のですが」
 血の繋がりはありません、と言ってしまえば、さも訳ありと言わんばかりの僕に先生は怯んだ。
「いつからかは覚えていません。証明と言うなら、母に聞いてください。……平気で『気づかなかった』と言いそうですが」
 淡々とこれまでについて打ち明けていく僕に、先生までもが会話に尻込みをし始めた。いち早く、先生の蛇のような目から彼を逃がしたい。――あと一歩。

「他も見ますか」
 僕は、制服のシャツのボタンに手をかけた。ボタンを指で擦り、きつい穴から解放させていく。ひとつ、ふたつ、みっつ……、ゆっくりとボタンを外し、指先だけで先生へにじり寄る。

「いや、今は」
 先生は僕の申し出を断った。いくら男と言え、パーテーションもなしに生徒に服を脱ぐようには言えないのだろう。
「ちょっと、今から職員室に来てもらえるか。確認したいことがある」
「わかりました」
 じゃあまたね、と僕は彼に白々しく手を振った。怯えたような表情をする彼が、手をふり返すことはなかった。


「ちょっと、見てもらうか」
 職員室に行く途中、保健室に立ち寄った。
 先生は先に保健室の中へ入ると、僕に許可を取った上で、養護教諭の女の先生に事のあらましを話した。
 眉を下げ、いつもよりほんの少しゆっくりとした口調で、彼女はまず僕の体調を聞いてきた。問題ないです、と素っ気なく返すと、彼女は気の毒そうな顔で僕を見た。

 身体を見てもらうことになり、僕はシャツのボタンを再びゆっくり外していた。カーテンを一枚隔てた向こう側では、いつの間にか人数が増えた先生たちが虐待の疑いがあることを慎重に議論している。
「校長、呼んできますか」
「その方がいいと思います。だって本人が」
「通報の対象ですから、手順を確認した方がいいですね」
 最後のボタンに手をかけたとき、「通報」という言葉に手が止まった。不思議とその言葉に未来を見い出せなくなった。

 卒業まであと半年もあるのに、住む家はどうしよう。
 大学は諦めた方がいいかもしれない。働いて、お金を工面するのが先だろうか。

 昔はこうではなかった。早く家を出たい、誰か助けて欲しい、そう常に望んでいた。それなのに、今はこの地獄を離れる不安が胸の中に渦巻いている。
 ぶたれることにいちいち反応しなくなったのと同じように、いつからか感覚が鈍麻していた。

「僕、一人暮らしできますか」
 シャツを脱いで上半身があらわになった僕は、やっと一端に心細くなった。周りには大人がまた増えていて、「なにも心配しなくていいからね」と僕に声をかける。優しくされると、自分が”可哀想なもの”なのだと実感する。

 養護教諭による身体観察が終わると、僕は再びシャツを羽織った。集まっていた先生のうちのひとりから、話し合いに時間を要すので今のうちに荷物を持ってくるよう指示された。

 大事になってきた。
 そりゃそうだ。わかっているはずなのに、心音がいつもより強く、速く聞こえた。「すぐ戻ります」とだけ口にして、僕は足早に保健室を出た。


「おい」
 誰もいないはずの教室には、男がひとり立っていた。日が傾き、西日が揺れたカーテンを橙色に染め上げる。
「なんで君がそんな顔をするんだ」
 変な顔してる、と笑うと、言葉は返ってこなかった。ただ、ひたすらに怒っている。ただなんとなく、僕だけに向けられたものではないような気がした。

「いつもそうなのか」
 そう、とはなにを指しているのだろう。服に隠れる場所にしかない無数の痣のことか、あるいはじりじりと、ある種の強引さを持って大人に食ってかかるはしたなさか。

「まあ、でも別に。大したことじゃないから」
 嘘ではない。大したことないのだ、この程度のことは。 
「だから俺に殴られてもいいってか」
「それは君が」
「なんだよ」
 ドミノが倒れていく。パタパタと軽い音を立て、指数関数的に速度を上げていく。
「もういいんだ。大元は家のことだし」
 気にしないでよ、と告げると、彼はさらに顔を歪めた。家族を売って自分を助けたことをよく思っていないのかも知れない。だが他に、彼を大事にする方法がわからなかった。

「……イカレてる」
 再び握られた拳は振るわれることなく、彼は教室を出て行った。
 彼の傷ついたような顔が、いつまでも頭から離れなかった。


>第三話(最終話)へ続く。

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