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木々は歌うーまえがき

  ホメロスの時代のギリシャ人にとって、クレイオス―声名―は歌によって作られた。空気の震えに、人物の度量と記憶とが乗せられる。したがって耳を傾けることはすなわち、永く残る名声を知ることだった。

  わたしは生態のクレイオスを探して、木々に耳を寄せた。英雄は見つからなかった。そのまわりで歴史が動くような単独の存在はひとつとしてなかった。その代わりに、木々の生涯は彼らの歌にはっきりと示され、生命の連環を、網の目のように広がる関係性を語ってくれた。わたしたち人類もまた、その語りのうちにある―血族として、ヒトの形をとった同胞として。

  耳を傾けることはだから、自分たちの、そして自分の親族たちの声を聞くことでもある。

  この本では、ひとつひとつの章でそれぞれ特定の樹種の歌に聞き入っている。物理的存在としての音の特性や、音を生きたものにする物語、そしてわたしたちの、体や心や頭がそれに対して示す反応に費やされている。歌の本質の大半は、表面的な音の響きの下にある。

  それゆえに耳を傾けることは、聴診器を大地の肌にあて、その下で渦巻く音を聞くことでもある。

  わたしは、特性の大きく異なる土地に生える木々を探した。

  第一部には、人間とは遠く隔たって暮らしているかに見える木々の物語が集められている。ところがこうした木々とわたしたちの生涯も、過去そして未来にわたって、もつれあっているのだ。そうした関係性のうちには、生命の起源に匹敵するくらい古いものもある。あるいは、古い関係性が産業によって新たに掘り起こされたものもある。

次なる部では、死して久しい木々の名残、化石や木炭を掘り出した。これらの古老たちは、生物や地質の物語の一翼を伝え、おそらくは未来への証人となる。

第三の部では、都会や田園に生(お)う木々に注目した。そこでは人間が優位にあり、自然は沈黙し、息を止めているかに見える。それでも生物たちによる生来の関係性はあらゆるものにしみわたっているのである。

  いずれの場所でも、木々の歌は関係性のあわいから生まれていた。一本一本の木々がそれぞれ独立してそびえているように見えても、木々の命の営みは、そのように原子論的なくくり方を裏切っている。われわれはみんな―木々も、人間も、虫も、鳥も、バクテリアさえも―多であってひとつなのだ。生命は、互いが互いを包含しあうネットワークだ。この生命ネットワークは、決して慈悲に満ちた調和の理想郷ではない。

むしろそこは、生態からの要請と進化の要請がせめぎあい、協働したり衝突したりしながら折り合いを見出していく場なのだ。このような努力の果てに往々にして生き延びるのは、ほかより強くて独立性の高い個体ではなく、関係性のなかに自ら溶けこめる者たちだ。

  生命はネットワークなので、人間たちから分離して隔絶された「自然」や「環境」なるものは存在しない。わたしたち人間もまた生命共同体の一部分で、「彼ら」とともに関係性をなしている。

したがって人対自然という、西洋哲学の中核にある二元論は、生物学からみれば幻だ。われわれは、ゴスペルに謳われる、「禍多きこの世を彷徨う見知らぬ旅芸人」[訳注:19世紀末ごろから伝承されているゴスペル]ではない。そして、ウィリアム・ワーズワースの抒情歌謡が生み出した孤絶した生き物でもない。だからわたしたちは、自然から放り出されて策謀という名の「淀んだ水たまり」に落ち、「事物の麗しい実体」をゆがめたりはしない[訳注:「淀んだ水たまり」はワーズワースの詩'A Poet! He Hath Put his Heart to School'、「事物の麗しい実体」「科学と芸術」は'The Tables Tured'の一節]。わたしたちの肉体と精神、「科学と芸術」は、これまでもずっとそうであったように、自然にして荒々しいのである。

  わたしたちは生命の歌の外へは踏み出せない。この歌こそがわたしたちを作っている。それがわたしたちの本質だ。

  だからわたしたちは、帰属しているということを行動原理にしなければならない。それは、人間の活動がさまざまな形で、世界各地の生物のネットワークをすり減らし、つなぎなおし、切り離しているいま、なおのこと、緊急の課題だ。木々という、自然界のつなぎ手の声に耳を傾けることは、すなわち、生命によりどころを与え、実態をもたらし、美をも提供している関係性の中に、いかに住まうかを学ぶことでもある。

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